幕間

第16話

 マンホールの中から覗く、無数の眼。

 熱い鉄の縁に手をかけて、僕もまたそれを覗き見ていた。少女のようにしなやかな生白い手は、僕の手だ。

 

「ここで良いの?」

 

 変声期間近の、少年の声。彼はそう言って、僕の前で立っていた。

 

「ここが一番簡単だから。見つかっても僕達のせいだとは誰も思わない」

 

 長い髪を耳にかけて、僕は少年にそう語った。彼はそっか、と強張った頬を無理やりに動かして、笑って見せる。

 少年は勢いよく、引きずっていた肉の塊をマンホールの中に投げ入れる。腐りかけの一家族が丸々入っていたそこに、更に一人の女が落ちていく。彼女は感情を失って、魂すらなく、ただ、暗闇の中の、無数の眼の一つと成り果てた。

 

「こんなことをして、怖くは無いの?」

 

 少年が僕に問う。僕は首を傾げた。ポッカリと開いていた感情の中に、怖いという考えがなかった。

 

「怖くはない。というか、何を怖いと思えば良いんだ」

「今、捨てたんだぜ? 人の死体を」

「お前、親戚の葬儀とか出たことないのか」

「そういうのとは意義も勝手も違うだろ。捨てたんだ、今、俺たちは、さっきまで生きていた人を」

「宗教の教えに則って人を焼き人が掘った穴に埋めることと、マンホールに投げ入れることの何処に違いがあるんだ? 違うのは、君が罪悪感を感じているか否かくらいだろう」

 

 少年は僕の目を見つめる。彼の泥のついた眼鏡に、僕の顔が写っていた。今し方、落ちていった女の顔と、そっくりな僕の顔は、まるで少女のようで、今とそう変わらない。夏の高い太陽を持ってしても、僕の瞳は暗いままだった。

 

「お前には、罪悪感が無いのか」

 

 壊れてしまった精神を拾い上げるように、少年は僕に言葉を投げた。修復直前の、吐き気を我慢する彼の顔が、異常に羨ましかった。

 だから僕は意地悪に、笑って見せた。

 

「そんなものがあったら、僕は母親なんて殺さないんだよ、小清水くん」

 

 取り戻した感情に押されて、幼い小清水は胃の内容物を口から体外へ排出する。まだ温かかった女の顔を、汚物が覆い隠した。十年降り積もった僕の愛憎が溶けていく。出会って数時間程度の少年の胃液の匂いが、マンホールから漂う硫化水素の香りと混ざる。

 

「じゃあ、次、行こっか」

 

 唾液と胃液を混ぜた小清水の手を、握って引っ張って、立ち上がらせる。ここに運ぶべき人が、まだあと一人、残っていた。僕は顔と手についた血を洗い流すため、川へ真っ直ぐ歩いた。

 ついでに彼にも顔を洗ってもらって、しゃっきり切り替えさせよう。

 そう思って僕は小清水の手を力強く握った。泣きじゃくりながらも、それに反応するように、小清水は僕の手を握り返した。僕達は静かに横に並んで、山の中を歩いた。小清水の腹が鳴った。もうすぐ、昼ごはんの時間だった。

 

 スマホのアラームが二日酔いの頭に響いた。画面を操作する僕の手は、大きくなってこそいたが、まだ少女性を保っていた。

 周囲に広がる本の山から、ここが小清水の部屋であることがわかる。家主を探して、本を掻き分ける。熱帯夜だったからか、それとも昨晩の深酒のせいか、当人は全裸で台所に横たわっていた。僕はそれを足で突く。

 

「起きろ。もう昼だぞ。何か飲みたいからそこをどけ。邪魔だ。冷蔵庫開けさせろ」

 

 小清水は僕の悪態を呻き声で返す。全裸の大男はやっとのことで上半身を持ち上げる。僕と目が合うや否や、彼はシンクに頭を突っ込み、盛大に胃の中身を戻す。蛇口を捻り、水を被る。

 

「……何でうちにいんの、お前」


 彼の口から出たのは、そんな僕への言葉だった。どうやら小清水には昨晩の記憶が一つも残っていないらしい。

 僕は冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、洗われていないコップへと注ぐ。自室で勝手を行う友人を見て、小清水は眉を顰めていた。


「お前はお前で何処まで覚えてるんだ」

「あー……嘉内かないさんに誘われて、お前と一緒に奢られに行って……ビール呑んで、お前が一人で嘉内さんの取り置きの焼酎一本空けて……」

 

 嘉内さん、というのは、いつも韮井先生の助手のようなことをやっている院生で、度々、僕達に声をかけてくれる男性である。話を聞くところによると、韮井先生が教えている院生というわけではないらしい。ただ、精神性が合うから共にいるとのことだった。最近は、数日前からフィールドワークに出ている先生と、僕達の連絡の間を取り持ってくれている。

 そんな嘉内さんは根っからの酒好き、人好きであることもあって、よく僕達を誘っては酒の味を覚えさせてくれている。

 

「ビール一杯をちびちび飲んでたくせに、それだけで酔い潰れたお前を、ここまで運んだ。それが僕の記憶だ」

「なるほど?」

「そして僕は歩いて酔いが回ってここに倒れた。状況と記憶的に、そういう感じだろう」

 

 そっか、とだるそうに水を被り続ける小清水は、そのまま再びの眠りにつきかけていた。僕は蛇口の水を止めて、彼の尻を叩く。

 かつての少年は、今、二日酔いでシンクに項垂れるような大人に成長していた。下水に胃液と唾液が流されていく。

 僕は小清水から奪った牛乳を腹に収めた。久しぶりに見た夢は、悪夢でもなく、予知夢でもなく、ただの、鮮明な過去だった。それを小清水に伝えるか、僕は瞬き、長考する。

 小清水の成長した四肢と、発達した肩や顔。過ぎた事を掘り起こせば、きっと彼はまた顔を歪めるだろう。僕は言葉を発そうとした口を止める。近くにあったバスタオルを小清水に投げつけて、今度は冷凍庫を漁った。

 そこに女の死体はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る