第8話

 目が覚めたとき、僕は白い光に包まれていた。ぼんやりとした不安にも似た、淡い毒のような白光。左腕の違和感で、刺さった針を認識する。鉛の様に動かない四肢に立ち向かって、僕は周囲を見渡した。日光が遠くから差し込まれている。暫く思考を巡らせた後、ここが医療施設であると結論した。幸い、僕が横たわっているベッドは廊下に一番近い場所にある。


「すみません」

 

 丁度良く廊下を通った白衣の女性に声をかけた。くるりと彼女はこちらを振り向いた。

 

「はい」

「ここはなんていう病院ですか」

「梅ヶ谷総合大学附属病院です。他に人を呼んでくるので待っていてくださいね」

 

 そう言って、彼女はにっこりと微笑むと、動こうとした僕の上半身をベッドに押し付けた。暫く廊下の足音を聞く。あまり急がないサンダルの音がした。

 

「おはようございます。気持ちよく眠れましたか」

 

 優男と呼ばれるに値するその男性医師は、僕の顔を見て微笑んでいた。柔らかい枕とマットレスを機械仕掛けで折り曲げて、力の抜けた上半身を持ち上げる。

 

 ……医師であるこの男曰く、僕は熱中症で運ばれたらしい。構内の中庭で、日陰とはいえ気温が高く湿った環境に長時間いたのだ。当たり前といえば当たり前の話だった。


「付き添ってくれたお友達から睡眠障害の可能性があると聞いていましたが、まさか二日間も目を覚さないとは思いませんでした。熱中症以外に何か原因があるはずなんですが、心当たりはありませんか」

 

 医師はゆっくり咀嚼するように、僕の言葉を待った。

 僕には心当たりがあるにはあった。しかし、それを答えたところで、説明しきれる問題ではないと思った。

 不可思議な夢を見るのだと、何処かにいる食人鬼と夢で繋がっているのだと、誰が言えるだろう。説明しても最悪、精神科に回されるだけだ。いや、既にそちらに世話になる手筈は整っているかもしれない。傍から見れば、医師が言った通り、僕は不可解な睡眠障害を患っているように見える。

 

「……いえ、特には無いです」

「そうですか。自分でもわからないところで、何か負担になっているのかもしれませんね。カウンセラーの方に紹介状を書きますので、早いうちに行ってください。ここの学生さんなら、無料で話を聞いてくれますから」

 

 そう言って、医師は表情一つ変えずに、目の前で書類を書き始める。ボールペンが紙に引っかかる音が聞こえるほど、周囲は静かだった。

 

「それじゃあ、少し休んだら手続きのことについてご説明するので、二時間くらいまた安静にしていてください」

 

 それじゃあ、と、医師は看護師と共に何処かへと向かう。体がまだ上手く動かない僕は、それを目で追った。下されなかった上半身が、安静にしろとは言ったがこれ以上寝るなという指示なのだと受け取って、僕は目を開けていられるよう、前を向く。

 

 眼球の夢を思い出して、自分の眼の圧迫感に気付く。この感覚は、レポートの提出期限を二日延ばしてもらった時の、あの酷使した視覚に似ている。

 眼底痙攣の中、僕は大きく息を吐く。やっと指先から腕が動くようになった。掌をじっくりと見つめて、その骨っぽさと血の気の無さに笑いが込み上げる。栄養の足りていない体が、今回のことでやっと悲鳴を上げたようだった。自棄っぱちになるこの感覚は、やはり夢で感じた子供のような心と似ている。

 

 あの夢は、ドロップ缶は、何だったのだろうかと。魚の眼は凍ってあの中に詰まっていた。死んだ女の死体でもなく、グロテスクな肉の塊でもなく、あの氷のような青年でもない。僕は恐ろしいとは思えなかった。ただ不気味だと、不可解だと。そんな疑念のみの重さが、身体の気怠さを増している。

 眠気が僕を襲い始めた。成る程睡眠障害なのは確かだ。眠気覚ましに、僕は目を瞑って天井を見上げ、息を吐く。顔に何か冷たいものがかかった。それは、何度も唇や瞼を覆うように垂れ続ける。僕はゆっくりと光を受け入れ、視界を広げた。

 

 白い天井の、黒い瞳と目が合った。

 

 ポタポタと垂れる水が目に入るのも構わず、僕は天井のそれを見つめていた。

 それは女。全身を白さと生々しい水分で覆った、上半身だけの溶けかけのあの女。和泉は再び、僕の前に現れたのだ。冷凍庫のような白い空間。白い天井に彼女は張り付いていた。目だけは全てが溶けていて、彼女はまるで泣いているように水滴を垂らし、光を吸収し続ける黒で僕を見続けている。

 僕は喉に両手を添えた。二度とこの女に首の骨をへし折られたくなかった。ひさしぶりに、僕は恐怖心を底から生み出していた。

 だが、彼女を見ることで、少しだけ安心感も得られた。この女が出てくるということは、僕はまた眠ったのだ。これは、夢なんだと。

 

「付き纏われたって構わない。どうせお前は夢でしかない」

 

 強くありたくて、僕は初めて彼女に罵倒を飛ばした。死者の夢を見ているだけだ。僕は、眠っているだけだ。目が覚めれば何もない日常に戻れる。自分が笑っていることに気づいた。和泉は何も言わず、何もしてこなかった。

 

「七竈さん? どうかしましたか」

 

 声が聞こえた。医師の声だった。夢から目覚める合図だと、僕は和泉を睨み付けた。

 

「どうしたんですか、天井なんか見て。何かありましたか。首攣っちゃいました?」

 

 医師が僕の視界の隅に入り込む。近くにあった席に、彼は腰をかけた。ゆっくりと僕は医師に目を向けた。その間も、水は僕に向かって落ち続ける。

 

「あの、あの、これって夢ですよね?」

「はい?」

 

 心底不思議そうな顔をして、医師は首を傾げている。だんだん、僕の肺が空気を取り込まなくなっている。

 和泉が消えない現実など、現実ではない。和泉はいない。死んでいるはずだ。血の臭いがした。僕の鼻血だった。

 目を離した隙に、女の手が僕の首と顔を這い回る。長く冷たい彼女の黒髪が、僕の剥き出しの肩にかかった。

 

「大丈夫。全部本当のことよ」

 

 彼女の赤い唇が、吐息がわかるほど近くで、動いた。

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