第9話

 どす黒い赤が、白い布を濡らしていく。側にいた看護師が、すぐにコットンを持ってくるが、止めどなく流れるものを遮る術はない。医師が脱力していた。僕は落胆していた。和泉の顔が、いつの間にか無くなっていたからだった。

 

「七竈さん、精神科を受診してみませんか」


 ついに折れたように、医師はそう言った。それくらいしか言うことが無いのだろう。現実を見ながら、僕はこれを夢だと言った。


「僕もそれがいいと思います」

 

 血を、細くなった腕で拭って、顔に塗り付ける。冷凍されたあの夢のような、新鮮な不快感が、僕の目から下を覆う。

 ごくりと医師が唾を飲んだ。もしかしたら、僕の様子はとても異常に見えていたのかもしれない。それでも、僕はカラカラになった喉を痛めつけながら、口で息をして、平穏を装った。

 カルテを回すと言って、医師が消える。看護師は僕の鼻血が止まるまで、ずっと傍に座っていた。


「看護師って、暇なんですか」

 

 嫌味ったらしく僕がそう尋ねると、彼女は患者に向けるような目ではなく、呆れた表情で僕を見た。

 

「そんなわけないですよ。貴方を見守るのも仕事なんです」

 

 暗に言わないでいるのは、僕が脱走でもしそうな、精神障害者に見えているのかもしれない。何科かはわからないが、おそらくは精神科の患者が入る場所では無いだろうこの病棟に、精神疾患を持ち合わせていそうな僕がいることは、忙しい看護師が周囲を警戒しなければいけないほど、危なっかしいのだろう。

 心臓のリズムに乗って、血液が垂れ流される僕の顔は、そんな彼女の手で生白い不健康な皮膚に戻っていく。水分を含んだ綿が、ひんやりとして気持ちが良かった。


「止まりませんね。耳鼻科の方も診察してもらった方がいいと思います」

 

 どうせ減るものもないですから、と、冷たく彼女は言った。

 実際、僕は付属の大学の学生であるだけで、この病院では費用が殆どかからないことが大多数を占める。言い様からして、今回もそうなのだろう。親に土下座をして高い学費を払ってもらっている甲斐があるというものだ。

 そんなこと内心に秘めつつ、僕は圧迫止血に勤しんだ。暫くすると、また別の、今度は男性の看護師がやって来て、僕に軽やかな笑顔を向けた。女性看護師が消える。立ち去って少しの間を挟むと、冷たそうな顔や瞳が、和泉に少し似ているような気が湧き上がった。だが、それも直ぐに男性看護師の力強い引手に消される。どうやら絶え間なく発せられる彼の言葉を聴くと、僕は彼に身体を支えられつつ、診察に向かうらしい。僕は塞がっていない手で、鼻を抑えた。赤を隠し、とぼとぼと歩く。周囲の生気無き目線が、夢を彷彿とさせる。僕はずっと目を伏せていた。

 多少の人目を避けつつ、腕を取られて辿り着いたのは、内科だった。白い扉がガラガラ音を立てて、うるさかった。白衣を着た男が、こちらを笑顔で見ていた。

 

「こんにちは、起きて早々に歩かせてしまいましたが、ご気分はどうですか」

 

 ベッドの横にいたあの医師よりも若干年齢が見えるその男は、柔らかく中性的な、特異な声をしていた。僕が黙って椅子に座ると、少し困ったような顔をしながら、また口を開く。

 

「あまり良くは無いみたいですね。睡眠障害があるという話を聞いています。心療内科として、お薬をお出し出来ますが、その前に精神科でカウンセリングを受けましょう。明日の午後に予約入れておいてあげますから。もう一晩泊まってもらって、カウンセリングで問題が無ければ、そのまま退院してもらって良いですから」

 

 優しげに、男は言う。付け足して、今日眠れなさそうだったら、今日分の睡眠薬は投薬する、とも。僕は暫く脳を動かさずに、黙ったが、自然と乾燥した唇が動いた。

 

「薬は要らないです。眠りたく無いので」

 

 ピリッとした痛みが、唇にヒビが入ったことを知らせる。いつの間にか抑えを無くしていた鼻腔の血液と、口元から出る赤が混ざる。僕はまた、腕で血を拭った。雑多だが清潔に保たれている部屋で、僕が唯一、汚物の様な存在だった。

 

「眠るのが怖いですか? 大丈夫ですよ。朝になったら看護師が起こしに来ますから」

 

 端的に言えば、この男が言う通りなのだろう。僕は眠るのが怖い。眠りに落ちたその時から、僕の夢が始まる。

 

「眠るなら、夢を見ない程に深く眠れるようにしていただけませんか」

「何か怖い夢を見るんですか。体調のせいかもしせませんね。わかりました。あとでちょっとした検査をして、それに応じて少し強めにお薬をを出ししましょう」


 内科医の言葉を聞いて、僕はゆっくりと深呼吸をする様に、礼を言った。彼はにっこりとまた微笑んで、男性看護師と共に僕を廊下へ出した。すぐに看護師はまた僕を別の場所へと手を引く。体重や身長の測定など、簡単な健康診断のようだった。その間、僕は言われたことだけを淡々とこなしながら、並列にことを考えていた。

 あの医師から出た怖い夢という言葉を聞いて、僕にはピンとこなかった。僕にとってあれは、何が怖かったのかがわからなかった。和泉の死体の夢を見たとき、僕は確かに、何か恐れを抱いていた気がする。だが、冷静になってみれば、和泉の死体自体は恐ろしいものではない。あの状況の不自然さが、僕の脳にバグでも与えていたのかも知れない。夢の中で恐怖と共に感じていたあの高揚感は、ホラー映画を観る人間の言う、スリルのようなものだろうか。それとも、視点となっていたあの銀細工の男が、そう感じていたから、僕も共鳴していただけなのだろうか。もしそうなら、今、あの男も、和泉の幻覚と眼球のドロップを恐れながら楽しんでいるのか。

 そんな考えを抱きつつ、僕は腕を引かれ、視界の端にある赤と黒の幻覚を踏みつけて歩いた。

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