一章 眼球飴

第7話

 僕は暫く、夢を見なかった。浅かった眠りと悪夢に魘された日々を取り返すように、僕は深く眠り、時には二十四時間以上眠り続けた。その時は、僕が一人、部屋で死んだのではないかと思った小清水に、扉を破壊され、やっと目覚めたのだった。先生は僕が眠り過ぎて講義に出なくても、何も言わなかった。レポートと、振替での補講を実施し、何とか集中講義を終えさせてくれた。

 長い、何もない夏休みが本格化する。実家から度々ある連絡を無視して、また、暫くの日々が流れた。

 その間、あの事件の続報を耳にした。どうやら和泉の恋人だった男は、殺害こそ肯定したものの、その死体は山に捨てたとかで、決して、大学の冷凍庫にあのような形に整形して保管などしていないと否認しているとのことだった。

 僕は最後に見たあの夢を思い出す。常日頃、夢は見てもすぐに忘れる程曖昧だった。けれど、この夢だけは違う。

 きっとあの男が、和泉の死体を何処かから持ち去り、美しい人魚として、冷凍保存していたのだろう。それが何故半年も経って、見せつけるように大学へ持ち込んだのかはわからない。

 ただ一つ言えることは、あの男が、おそらくはこの周辺に住み、大学にも出入りしているだろうということである。

 

 例えば、そう、彼もまた、僕と同じこの大学の学生かもしれない。

 

 この大学には人が多すぎる。もし学生だとすれば、学部学科の違う者だろう。あのような彫像のように美しい男を、僕は見たことがない。

 もう一生、彼に出会うことがないように、僕は祈った。それは夢の中でも、現実でもだ。

 

 そんなふうに神経を尖らせる日々も、集中講義が終わって暫くが経ち、あまりの平凡さに忘却し始めていた。僕はボーッと意識を空に飛ばしながら、中庭の日陰でうとついていた。先生に言われた通り、小清水と出来るだけ共に行動するようにした結果だった。教職課程をとっている小清水は、僕以上に集中講義が夏に組み込まれている。彼に着いていくということは、意味もなく僕は大学に来る日が増えるということだった。それでも、何だかわからない、先生の気迫と不安で、僕は小清水に着いて歩いた。僕の座る日陰の傍、一階の講義室では、僕にはよくわからない、子供の発達がどうたらという話について、小清水が聞いている。

 僕はクワッと一度欠伸をすると、また意識を日陰の涼しさに任せる。木々の水分が、僕から体温を奪っていく。

 

 水に沈むようだった。体液が僕を巡る感覚が、酷く生々しい。ベタついた手と口元が、少しずつ乾燥し、張り付く。その前に僕は唇を舐めた。僕はいつか食べたレバ刺しを思い出す。鉄分が甘く感じる。

 目の前の冷蔵庫を閉める。食材が揃っていることに喜びを感じた。

 それと同時に、今再びの悪夢を理解し、僕はその手を止めた。

 ここは僕の部屋だ。あの壊れた冷凍庫が、また直って、僕の前に現れた。予兆による非現実と事実がすり合わせを起こす。冷凍庫を開けるのが怖かった。

 それでも僕の手はごく自然に冷凍庫の扉を開けようとする。まるで視覚と体がリンクしない。過呼吸になる感覚がある。それでも、ヒューヒューという気管の音はしない。当たり前のように静寂なその台所で、僕は少し震えながら扉を開けた。

 

 冷えた缶ドロップがあった。昭和の香りがする、ブリキの缶だった。人差し指で表面を撫でると、ビニルが皮膚に引っかかる。熱の伝導で、中身が凍っていることがわかる。

 冷えた金属特有の、皮膚が張り付いては溶けるを繰り返す感覚。手で掴んだそれは、冷凍庫から出されると、周囲に霜を貼っていく。 キャップが凍り付いていた。僕はドロップ缶を胸に当てて溶かす。切れるような痛みを抱えながら、僕は好奇心のためだけに、それに耐えた。汗が凍る。そして、溶ける。

 パンッと音がして、凹んでいた缶が膨張する。蓋が一人でに開いた。水分が艶やかだった。鉄の香りは、薄い窒素を含む。ブリキの味は、体液より水っぽく感じる。舌が冷えて、味覚が鈍っていく。

 子供の時分の高揚感が襲う。手が震えた。そっと缶の蓋を取り払って、中身を覗く。暗くてよくわからない。一つ、出してみようと、手のひらに向かって缶を振った。重みは内容物の存在を示している。それでも、カラカラという軽快な飴玉の音はしなかった。

 何度も、何度も、僕は缶を振る。何度やっても中身は出ない。少しずつ頭に血が上っていく。両手で缶を持って、僕は床に向かって重力と圧をかける。何度振っても、音もしないし、内容物も出なかった。僅かに汁が垂れたが、固形物は出ない。中身を覗いて、手の中指を差し込んだ。まだ冷えた缶の中は、僕の指を冷やし続ける。引き抜けば、赤色が指先に付着していた。ぺろりとその汁を舐めて、水ばかりの味に、カッと僕は感情を昂らせる。


「何で出て来ないんだよ! バーカ!!」

 

 つい、子供のような、自分でも意味のわからない言葉が引出される。ガシャンと大きな音を出して、缶は僕の手から離れていた。

 缶は冷凍庫から離れて、水槽の前に落ちる。驚いた小さな魚がパッと群れを成して水草の中に隠れた。水槽のLEDが、ドロップ缶を照らす。中身がデロりと流れ出した。

 

 それは、魚の眼。沢山の、小さな死んだ瞳。

 

 僕は口の中から、いっぱいの青い魚を吐き出した。 

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