第6話

 その夜、僕は小清水の部屋にいた。流石に堪えていると思ったのだろう。小清水は、自分の部屋に入ろうとした僕を引き止めて、隣室である自室に入れ込んだ。隣り合わせで、対になるような間取りだった。しかし、小清水の部屋は、僕の何もない部屋とは違って、本で埋め尽くされた、荒れ果てた図書館のような場所だった。唯一、本の置かれていない台所で、家主がトントンと包丁を動かす音がする。母親の鼓動を聞くように、僕は微睡に浸かり始めた。

 

「もう少しかかるから、寝てて良いよ。魘されてたら起こすからさ」

 

 安心しろ、と暗に言う。安直な彼の言葉を拒絶するように、僕は髪をかきあげて、いや、と口にした。

 

「またあんな夢を見るのは、出来るだけ避けたいんだ……」

 

 僕がそう言っても、小清水は何も答えなかった。僕は手元にあったリモコンで、テレビの電源をつける。日も落ち、どのチャンネルでも、ニュース番組ばかりやっていた。ニュース速報というテロップで、何処かの資産家が死んで、その息子の若手俳優が、お気持ちを述べている。どの番組も、彼ら家族の話を生放送で引っ掻き回すので忙しいようだった。


 ハッと、目線が無意識に動いた。


 画面の向こう、その若手俳優の後ろに、ゆっくりと動く影を見る。不自然なほど長い首と、頭から流れる泥。画面越しで良かったと何度も、数秒のうちに思ってしまうほど、臭気を放っていそうな、ヘドロの女。何処かの名作アニメ映画で見たようなそれは、ゆっくりと、丹念に、慈しむように、俳優の美しい肌と顔を撫でている。ボタボタと泥と、タンパク質の塊がアスファルトに落ちている。誰もそれを認識していないのか、画面の向こうの人間は、皆、平然としている。

 

「小清水、小清水」

 

 僕は耐え切られなくなって、彼を呼んだ。確認して欲しかった。僕は今、夢を見ているのか、それとも、現実の中で幻覚を見ているのか。果ては、これがニュース番組を模したドラマなのかもしれない。

 

「なあに」

「あの、ほら、見てくれ。ヘドロ塗れの女がいて……」

 

 僕は、そこまで言って、ふと画面を凝視する。否、そこにテレビの画面はない。あったのは、水だけの空っぽの水槽。それも、水族館の入り口などで取り扱っているような、大型のものだった。これから生命が満たされるのか、それとも、溢れてしまった後なのかはわからない。だが、生臭い臭いが、本の代わりに部屋中を満たしていた。

 どうやら、僕はテレビを見ているうちに、眠ってしまったようだった。嫌に現実感のある夢だった。


 グシャリと何かが潰れる音がする。それは果実を手で砕いたような、袋から中身が溢れる音。ポタポタ何かが水面に垂れる音。その何かの正体を、僕は嗅覚で理解した。

 鉄錆の匂い、嫌と言うほどの、アンモニアを含んだ香り。僕は振り返ることができなかった。想像がついた。この悪夢について、結末を予測出来てしまった。

  ずるりと広がるガラス面。部屋の暗さが、ただの硬いガラスを、鏡のように見せた。僕は自分の顔と対峙しながら、間接的に背面での惨状を見つめた。 

 

 黒塗りで立派な冷蔵庫だった。部屋を見渡した視界には全て白や黒のコントラストがはっきりした家具ばかりだった。高級そうな家具は丁寧に整理され、僕の背後にある場所も、台所と呼ぶより、キッチンと言ってやる方が合っている。

 冷凍庫の扉に隠れていた一人の男が、立ち上がって、顔を見せる。氷の彫像を思わせる冷淡で整った骨格。白い肌と白い髪は、繊細な銀細工と言っても良い。瞳は冷凍庫の淡い光に照らされて、深い葡萄色を発していた。冷凍庫の扉をゆっくりと閉めたその手は、がっしりとした男性的な骨付きだった。目測で正確さには欠けるが、僕の見立ててでは、僕の知る人間の中で一番の背丈と体格を持つ小清水なんかよりも、身長は高いように見えた。それでもスラリとした体格で、造形物的な顔面とよく似合っている。

 僕はその人物を見ているうちに、和泉に触れようとした好奇心を思い出す。僕の感情は今、その時のものに近い。

 はあ、とそれは溜息を吐く。そして、ゆっくりと僕をガラス面越しに見た。

 僕はグッと息を止める。鏡面越しに目があった。夢の中で見た、知らない顔、知らない人、想像もつかない部屋。おそらくは、この人形のような人も、実在する人物なのだろう。僕は今、その人物の生活を夢で見ている。ぐっと息を堪えて、僕はその生活から抜け出すように、排除されるように祈った。


「……次は青いのがいいな」

 

 声色は中性的で、女とも男とも取れない。段々と近づくそれは、僕の背後のすぐ近くに立った。堪えられなくなった肺に、空気を取り込む。

 その瞬間、僕はウッと顔を顰める。淡麗な造形に似合わず、彼は腐敗臭を身体から発していた。正確には、先程から部屋を満たしていたアンモニア臭と鉄分の複合臭が、彼を中心に撒き散らされているのだ。

 彼はよりゆっくりと動き、僕を無視して、水槽に手を入れる。ドロリと、彼の手についていた血液が、水槽の水に溶けていく。赤黒さが拡散されていく。その中でグーパーと手を何度か開いて閉じて繰り返しているうち、それが心臓のように見えた。彼は手を洗い流しながら、水槽の向こう側に顔をやって、血の流れる自分の手を観察する。脱力感のあるその行為を僕はボーッと見つめていた。青年はもう一方の手で顔を拭う。血液がべっとりと顔について、白と赤のハッキリとしたコントラストが出来上がる。腐敗臭と冷えたナイフのような彼の顔が、より際立つ。

 

「お前も、こういうのが好きなんだろ」

 

 唐突に、彼はそう言い放った。その目は確実に、僕を見ていた。にんまりと、少年らしさすら見えるほど嬉しそうに、彼は僕を見て、笑っていた。


 わかるよ、僕もだ。


 その言葉が、自分の中から出たものか、彼が言ったものかわからないうちに、僕は朝を迎えていた。

 

 いつの間にか僕は、テレビの前でブランケットをかけられていて、小清水は布団ですやすや眠っていた。魘されたら起こすと言った本人の、気持ちよさそうな寝顔に、理不尽だが腹が立って、小清水の鳩尾に踵を落とした。

 悶える小清水を横目に、僕は適当に置いてあった煙草に火をつける。

 妙に、すっきりとした朝だった。

 

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