第5話

 先生はため息をつきながら、僕達を見た。

 

「私、第一発見者」

 

 自分を指差して、そう笑いかける。

 梅ヶ谷総合大学とは、何を隠そう、僕達が今いるこの場所のことだ。全国に複数キャンパスがあるが、僕達が通っているこの犬泣キャンパスが最も広大な土地を持っている。山一つと巨大な平地。構内にバス停が三カ所程ある程度には、ここは広い。自分が所属する学部学科が使わない場所には、基本的には入らない。僕は小清水以外に殆ど友人もなく、狭い世界で生きている。故に、僕はこの大学で死体が見つかったという噂すらも、知らなかった。

 

「知りませんでした」

「だろうよ。ずっと規制されてたしな。だから、お前が夢の話を言い出した時はビックリしたものさ」


 先生は自分の珈琲に大量の砂糖を入れながら、そう言った。溶け切るかもわからないそれをぐるぐるとスプーンでかき回す。冷房の吐き出す冷たい空気で、湯気が横に流れていった。


「……少し、聞いても良いですか?」

 

 僕が一つそうやって言葉を置くと、先生は珈琲を冷ます吐息を止めて、僕を見つめた。

 

「この熱帯魚というのは、アロワナじゃないですか? それと、和泉さんの死因は頸椎の損傷。多分、彼女を殺した恋人は、かなり力が強い人。もしかしたら、この大学の格闘技系の部活動の関係者、とか」

 

 つらつらと言葉を並べていると、先生はあんぐりと口を開けて、話を垂れ流す僕を傍観していた。小清水も、ギョッと引いていて、一種の疎外感を感じた。

 

「すみません。憶測が過ぎました」

 

 僕はグッと下唇を噛む。夢で出てきたことを繋げただけとはいえ、夢は夢だ。現実と夢の合間が、既に僕の中では曖昧になってきているようだった。珈琲の苦味で、覚醒を促し、先生の答えを待った。暫く先生は考え込んだ後に、何か決心したように、僕と小清水に近づく。

 

「七竈、お前、今までに予知夢や正夢と呼ばれる類を見たことはあったか」

「ありません。信じてませんでしたし」

「家族に似たような経験をした人間は」

「いません」

 

 僕が淡々と答えていく姿に、先生は何度も丁寧に頷いた。舐めるように僕の足先から頭髪の一本までを見る。

 はあ、と先生はため息を吐いた。

 

「私が見たとき、確かにあの鱗はアジアアロワナっぽかったし、顔の鬱血なんかが、窒息っぽかったよ。恋人も、確かに、柔道部の外部コーチだった」

 

 諦めたように、先生は尽くを垂れ流す。

 

「じゃあ、お前が今日見た夢の話を聞こう」

 

 先生は、ほら、と僕に目配せする。小清水も、心配と果ての好奇心を顔に浮かべていた。仕方がなく僕は、口を開いた。重く、顎が痛むようだった。

 

「今日、和泉さんが、冷凍庫から出てきたんです」


 夢の中で和泉が僕を襲ったこと、頸椎を破壊されたという経験のこと、部屋でアロワナが飼われていたこと。僕の視点が、一部、僕ではない別の誰かである可能性について。

 先生は難しそうな顔で、最早僕のことも見ずに、内容をメモしていた。小清水は非日常への高揚が隠せずに、僕の隣で僅かに吸う息を増やしている。

 ふと、先生がペンを置いた。

 

「七竈。多分、これからもお前は、そういう夢を見ると思う」

 

 冷静に、強烈な宣告を、目の前に置いた。先生はいつになく冷たく、氷のような瞳をしていた。

 

「お前の見た夢は、お前の経験も何も関係がない、赤の他人の、死体の記録。どう死に、どう扱われ、何を最期に求めたのか」

 

 先生にしては詩的な表現だと感じた。ただそれは、事実として何となく僕には受け取れた。実際に、僕は、和泉の死体と、助けてほしいという願いを聞いた。夢として、現実から離れたような表現はあったが、何処か必ず繋がっていた。

 

「私はそういうものについて、多少の知識がある。そして、それに関する知人も少なからずいる」

 

 僕は汗で濡れたシャツを握り締めた。胃が、キリキリと鳴った。空腹感が、飢餓感が、先生の言葉を噛み砕こうとしていた。

 

「もしもお前が、和泉恭子以外の記録をこれ以降、見ることがあったら、私の知人に頼れ。お前の助けになるだろうし、何ならお前が助けることになるかもしれない」

 

 そうならないように祈っているが、と、先生はゆっくり息を吐く。僕もそれに倣って、空気の出し入れをした。少しだけ出来た余裕が、また不安違うで満たされていく。

 僕はまた、あんな悪夢に魘されるのか。

 先生は何を知っていて、こんなことを言っているのか。

 僕は何故、こんな目にあっているのか。

 納得出来る理由と事象が欲しかった。先生は静かにメモを見せる。それに直接の言葉が書かれているわけでもないだろうが、僕は先生の手からそれを受け取った。


「知り合いの連絡先と住所だ。そう遠い場所じゃない。初めて会う時は私の名前を出せ。先に私からも話しておく」

 

 急な親切心に、ただただ戸惑うばかりだった。弱る僕を見て、先生も狼狽えているのかもしれない。そうやって、先生の言葉を飲み込んだ。暫く僕が黙っていると、先生はまた口を開いた。

 

「それと、お前ら、今後は出来るだけ二人で行動しろよ。七竈も、居心地が悪くても引っ越すな。引っ越すくらいなら小清水と同居でもしろ」

「それはまた、何で」

 

 少し迷惑そうに小清水が尋ねると、先生はスンと鼻を鳴らして、そのうちわかる、とだけ置いた。僕達が顔を見合わせていると、先生は飲み干したカップを回収する。

 

「じゃあ、また明後日の授業で」

 

 今度は居眠りするなよ、と、尽くを刺した後、先生は何も言わなくなってしまった。僕達は、はい、だとか、お疲れ様ですとか、あまり記憶に留めるのも難しいような、当たり障りのない言葉を置いて、部屋を出た。

 ぬっとりと水分を含んだ空気が、背筋に這う。僕は振り返ったが、そこにあったのは、閉じた研究室の扉だけだった。不思議そうな顔をしていた小清水を隣に、僕達は帰路を辿った。

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