第4話

 その夜、僕はベットの上で蹲って時間を潰していた。

 生理現象として、眠りは存在する。惰眠を貪るだとか、そういう娯楽的な話ではなく、僕は、眠らないといけない。ただ、当たり前のことだが、僕の中には不安しかなかった。授業中のうたた寝でさえ、僕は冷凍庫の夢を見た。小清水の話と、先生の様子から、冷凍庫の夢は、僕の知らない現実を反映しているような気さえする。

 夢見という現象について、一般的には、脳が記憶の整理をしているというのが説としてあるが、もしそうなら、僕のこの夢は明かに違う。断言できる。僕は和泉さんという女性教師を、現実では今日初めて知った。記憶と時系列の齟齬がある。不確かさと不可思議に、初めて親元を離れる子供の如く、僕は眠れずにいた。夏の寝付きの悪さは元々だが、ブランケットが冷や汗を吸って、少し重く感じるほどだった。外に出た水分で、口内が乾く。僕は立ち上がって、冷蔵庫を目指した。

 まだ僕は眠ってない。これは夢じゃない。

 そう言い聞かせて、僕は暗い部屋を歩く。本棚の位置は変わらない。夢の中ではどうだったかと、僕はうつらうつらしながら思い出していった。フローリングの感触で、辛うじて意識があることを確認した。

 やっとのことで辿り着いた冷蔵庫は、固く閉まって、冷気は漏れていない。

 あぁ、良かった。

 僅かばかりの安堵があった。その感情の先に何があるのかは、理解できていなかった。冷蔵庫の取手に手をかける。腕を引く。

 

 僕は、いつの間にか足元の冷凍庫を開けていた。青白い光が、僕の足先を照らす。僕の意に反して、僕自身は、冷凍庫を覗き込もうとする。

 早く、早く、目を覚ませ。もう悪夢を見たくはない。これは夢だ。これは、夢だから、本当のことではないから。

 夢として、僕はこの状況を反芻する。喉が詰まって、クッと唾を飲んだ。息が上がる。吸った空気の中から、香水の甘い香りがした。蹲み込んで、冷気をいっぱいに吸う。眼前にあったのは、やはりあの女性だった。僕が描いた似顔絵は、間違っていない。ハッキリとした記憶の中で、僕は酔い始めていた。よく見ると、彼女はまだ凍っていない。冷凍庫に入れられてまだ数分しか経っていないのかもしれない。水滴が僕の手に落ちた。まだ瞳は白濁していない。

 既に僕には、不安感が無くなっていた。好奇心で、彼女の黒真珠のような瞳に触れようとした。

 グリンッ、と、女の瞳は僕を捉えた。

 黒い曲面に、僕の顔が映る。げっそりとした、酷い顔だった。思わず、ハハっと笑いがこみ上げてきた。

 

「助けて」

 

 女は下半身のない状態で、ハッキリと、僕にそう言った。彼女の手が、僕の手をしっかりと掴んでいた。最期に振り絞る、生命的な美しさすら感じるような力は、弱まる鼓動を僕の手に伝える。

 

「無理だよ。自分の足元見てみなよ」

 

 僕がそう言い放つと、彼女は僕の喉にすかさず手を伸ばして、約半分の全体重を、床に伏す僕に押し付けた。甘い香りと、鉄分が鼻腔をくすぐる。僕は、和泉に首を締められていた。細身の女とは思えない力が、僕の首をへし折らんとしていた。キョロキョロと周囲を見渡す。脳に酸素が行き届かない。僕の視界は、黒く染まっていく中で、その端に巨大な水槽と、一匹の大型の熱帯魚を見た。ゴキりと音を立てて、僕の頸椎が割れた。

 

 僕は勢い良く、目の前にあった半開きの冷凍庫の扉に顔面を打ちつける。叫び声に続いて呻き声をあげ、その場で蹲った。周囲の状況から、僕は冷蔵庫を開けた瞬間に、意識を失っていたらしい。シンクの下で座り込んで眠っていた僕は、目覚めてすぐに、鼻と額を同時に強打したのだ。

 喉が乾いて張り付き、粘膜は機能していなかった。重い体を腕でなんとか起こして、シンクに頭を入れる。蛇口を捻って、温い水を被る。大分、覚醒できた僕は、もう一度蛇口を捻って、水を止めた。シンクに映る僕の顔は、和泉の瞳に映っていた時よりも、より一層ひどくなっていた。またあははと笑っていると、インターホンが鳴った。

 

「小清水だけどー。起きてるー?」

 

 薄い扉の向こうから、小清水の声が聞こえた。僕は床に落ちていたジャージを羽織って、彼の声に真っ直ぐ向かった。玄関の戸を開けると、驚いた表情の小清水が立っていた。

 

「おはよう」

「おはよう。酷い顔だな。また夢を見たのか?」

「あぁ。今夜もとびきりのやつをね」

 

 僕がそう言うと、小清水はウッとばつの悪そうな顔をして、じゃあ、待ってるから、と玄関に入り込んだ。僕は急いで着替えを済ませ、吐き気の中でポカリだけ飲んだ。口を潤し、僕達は先生のもとへ向かった。

 

 眠気を堪えて、昨日も見た風景を、もう一度見に向かう。ドアの向こう側から、珈琲の匂いがした。先生が気付にでも淹れているんだろう。僕はドアノブに手をかけて、勢い良く部屋へ滑り込む。


「失礼します。七竈と小清水です」

「ノック」

「失念しました」


 暑い空気が入り込んだ部屋は、元々はキンキンに冷えていたのだろう。皮膚の露出が大きい僕の服装では、少し寒いくらいだった。それ以上に、あの冷凍庫から流れる冷気を思い出し、不快感だ舌打ちが漏れる。

 

「元気そうで何より」

 

 先生はそう言って、僕の顔を見て、一杯の珈琲を向ける。僕と小清水がそれぞれ受け取ると、先生は椅子に腰掛けるよう促した。

 

「お前ら朝のニュース見たか」

 

 先生がそう尋ねると、僕は首を傾げる。小清水もまた、同じようにしていた。先生は溜め息をついて、手元にあった新聞を僕に投げつけた。

 小清水にも見せながら、僕は今日の朝刊を開く。第一面には、政治の話だとかが並べ立てられ、興味も意味も無い。何となく、嫌な予感がして、僕はある一人の顔を探していた。上から下まで、舐めるようにそれを探す。ふと赤い丸が見えて、それが先生の付けた印だと理解する。

 小清水が、あっ、と声を上げた。僕は含んでいた珈琲を飲み込んで、もう一度含む。

 

『八月○日 梅ヶ谷総合大学内で今年二月から失踪していた和泉恭子さん(当時二八歳)の遺体を発見』

『下半身を巨大な熱帯魚に置き換えられ、上半身は防腐処置が施され、大学内の冷凍室で大学職員により発見された』

『下半身の行方は依然として不明』

『警察は容疑者として、大学に出入りしていた和泉さんの元恋人を逮捕』


 僕と小清水は顔を見合わせて、もう一度、記事の中にあった彼女の写真を見た。彼女こそ、僕が夢で見た女だった。 

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