第3話
夏の短期講習というのは嫌にやる気を削ぐものだ。今回の僕達の場合、少人数の狭い部屋で、朝から昼に一、二時間ほど休憩を取りつつ、晩まで、見知った顔の先生の話を延々聞かされる。しかもその見知った顔というのが、まあ話の上手い人気講師だったら良かったものの、教員の中ではそこそこお互いに人格の悪いところまで知っていて、自分の興味関心のある事柄しか語らない所謂研究者気質の人間であった場合、とても悲惨なことになるのは、目に見えていた。更に、その授業で不可抗力ではあるものの、涎をだらしなく机に垂らし、あまつさえゲロを吐きたいなどと言った時には、個人的に呼び出されて追加の罰則を受けるなど、ごく当たり前のことである。
キャスター付きの椅子に乗って、そこそこの広さの室内で、韮井先生は僕と小清水の周りをぐるぐると回っていた。冷たい床に付けた膝が、気温と空気感による温度のアンバランスさで、流石に痛みを訴える。
「そんなに私の授業はつまらないかね、君達。ん? 意見があるなら常にメールで募集しているんだがな。おかしいな、君達からご意見メールをもらった事はないぞ。因みに毎度言っているが、意見質問のメールは加点対象だ、どんな酷いクソみてえな罵詈雑言送りつけてきても減点にはならん。脅迫及び名誉毀損なら警察に届けて人生諸共学生生活を終わらせてやるからな」
ニコニコ笑顔の絶えない先生は、顔色の悪い僕達二人を突き始めた。
「気分が悪いと訴えていた学生を監禁して突き回すって社会的に良いんですか」
小清水がそう言うと、先生は更に笑っていない目を見開いて、宙に唱える。それは、側から見れば、一種の儀式のようにすら見える。
「先生気分が悪いですって言って、何度ヤニ入れに行ったよお前ら。そういうこと言う前に日頃の自分を恨みな。特に小清水、お前は七竈と違って真面目なんだから、変に此奴の肩を持とうとするな。お前、嘘が下手だろ。お前が肩持って逆に七竈の嘘がバレたの今まで何回あったよ。ちょっと考えようよ、お前」
一理ある、と僕は小清水を見る。彼はへへっと笑って、僕と目を合わせようとしたが、僕は大人気なく舌打ちをして、そっぽを向いてしまった。
「まあ、実際、今日の七竈が体調崩してるのは授業始めた時からわかってたけど。言ってくれりゃあ別日にお前らだけ補習したのに」
「なんで小清水も一緒の扱いなんですか」
「だってお前ら、ニコイチじゃん。寧ろ七竈、お前、私とマンツーマンでやりたい?」
「絶対に嫌ですね」
「だろ。私もヤダ」
先生は整った顔で、僕達を見下しながらそう笑った。いい加減、罵り続けるのにも飽きたのか、先生は椅子を二つ、足で蹴り、僕達に座るよう促す。僕達が腰を落ち着けて、痛む足をさすっていると、ペンと紙を手元に、先生は落ち着き払って言った。
「それで、七竈は何であんなに気分悪かったんだ。午前もいつも以上に眠そうだったけど、何か眠れないことでもあったか。お前、基本的に惰眠を貪ることは惜しまないだろ」
先生は多分、ここの教職員の中で、僕のことを一番よくわかっている。僕は小清水のようにゲームはしないし、睡眠時間を削ってまで勉強もしない。夜眠れなくなる原因が、何かに時間を奪われて、という至極理性的なものであることはまずあり得ないのだ。
「言っても、多分、馬鹿らしいと思いますよ」
「良いよ。言ってみ」
「じゃあ……」
僅かに優しさを見せた先生に、僕は夢のことを垂れ流した。途中、小清水があの和泉という英語教師の話を注釈しつつ、僕は全てのことを先生に話した。僕が授業中に見ていた夢については、流石の小清水もギョッとした表情で見ていた。
「……と、いう夢のせいで、ちょっと、寝付きが悪いみたいで」
僕の結論を聞いている時、先生はかなり難しい顔をしていた。眉間にシワを寄せて、何か考え込むようにして、思考の中に飲み込まれているようだった。暫くして、咀嚼し終わったのか、先生は僕と小清水を交互に見た。
「成る程。それは少し、困ったことになってるな。というか、いや、かなり奇妙な話だ」
先生は首を傾げる僕達を見て、首を振った。
「いや、お前達に教えられる話じゃないな」
今はまだ、と付け足して、先生は頭を掻いていた。どうやら、何か悩ましいことと僕の夢を繋げているらしい。先生は口は悪いが、社会常識はある程度持ち合わせていて、情に厚い男ではある。暫く唸った後、妙にスッキリとした顔で、先生は言った。
「仕方がない。ここまで漏らしたし、明日は授業がない日だが、二人とも一限からここに来てくれ。多少はお前が眠りやすくなるだろうことを教えてやるよ」
先生はメモ用紙に約束の時間と、雑多なことを書いて、僕と小清水に手渡した。ついでに僕には五千円札を渡して、肩を叩いた。
「今日は二人で美味いもんでも食って、クソして寝ろ。疲れが溜まってんだよ」
小清水が先生の五千円札を覗き見て、僕の腕を叩く。先生が早く外に出ろと、立ち上がった僕達の背中を叩いて、廊下まで誘導する。外の蒸し暑い空気を吸った。バタンと教室の扉が閉じると、小清水はいやに嬉しそうに僕の顔を覗く。
「二人で食え、だってよ」
「わかってるよ」
「おう。じゃあ駅前のステーキハウス行こうぜ。二人で行っても釣りが出るだろ」
うきうきと足元が軽い小清水を、僕は後ろから呪った。此奴は本当に、僕の夢の話を聞いていたのか、甚だ疑問だった。
ふと、たまに食べれる焼けた肉に連想して、あの夢の中で食べた、足の親指を思い起こす。ネイルの感触が、甘い飴でも舐めているようだった。甘露のようなひと時のハッキリした記憶が、僕の肉に対する吐き気を助長した。五千円札を握りしめて蕎麦屋に入った僕へ、小清水はアパートに帰るまで文句を垂らしていた。
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