第2話
眠たげな講義、香り深い喫煙所、暑い昼下がり、隣室に住む友人。全てがごく当たり前な、いつもの日常風景だった。
あぁ、夢だったんだ。アルバイトなんて、面接にすら行ったことがないじゃないか。
あの裸の美女の上半身が詰まったうちの冷凍庫は、夢だったんだと、その風景を噛みしめる。
「どうした。お前、今日、変じゃないか」
塩気ばかりのカップ麺を啜っていると、小清水がそう訴えた。僕は首を振る。
「変って、いや、別に何とも無いよ」
「目の隈が酷いぞ。昨日はそんなんじゃなかっただろ」
言われてみれば、と、スープに映る自分の顔を見て、僕は気づいた。今朝から、多大な眠気と無気力に襲われている。日常を噛みしめなければいけない程に、僕は何処か疲弊しているようだった。
「……まあ、アレだ。上手く寝付けなかったんだ。変な夢を見てしまって」
「変な夢?」
「うちの冷凍庫の中に、とんでもないくらい綺麗な、女の上半身が詰まってるんだ」
「何だ、江戸川乱歩の短編でも読んだか」
「似てるけどね。僕がああいうの、趣味じゃ無いって知ってるだろ」
確かに、と小清水は珈琲を一缶飲み干した。
「でもその綺麗な女って、どんな?」
小清水の問いに、僕は少し戸惑いながら、鞄を漁る。紙とペンを用意して、ハッキリと覚えのある彼女の顔を描き始めた。
際立つ鼻筋と、長い黒髪、濃い目の眉は生きていれば眼光が鋭く男を刺しただろう。
「こういう人だった」
「ふうん、美人だな」
自分で話を振っておきながら、小清水はあまり興味なさげにそう言った。だが、彼のスマホをいじる手が、急に止まった。一秒もしないうちに、小清水は眉間にシワを寄せて、僕に詰め寄った。
「いや、待て。お前、和泉さんに会ったことあったっけ?」
「和泉って誰?」
「お前が夢で見た女だよ。そっくりなんだ。隣町の高校で英語教師やってた。お前、会ったことないはずだろ。教職課程取ってないし、会う機会なんてあるはずがない」
小清水は教職課程を履修している奇妙な男だった。曰く、彼のような学生は、一度は近隣の高校や中学校に授業見学に行くそうで、和泉という女教師は、その時に出会ったらしい。一般的な学生である僕には、とんと知らぬ名前だった。
「僕も夢で初めて見たんだよ」
「その筈だ。俺だって会ったのは去年だし、和泉さんは半年前から行方不明になってる。会える場面が無いだろう」
「行方不明?」
僕が問うと、小清水はゆっくりと喋り始めた。
「俺も、先生達から聞いた話なんだけど、半年前の大雪の日にいなくなったらしい。翌日には彼氏とデートの約束があったらしいし、自殺とかではないって、何か事件に巻き込まれたんだろうって話。でも誘拐されたにしては痕跡は見つからないし、殺されたとしたら、死体もまだ見つかってない」
軽い噂話のように、小清水は言った。
「奇妙な話だね」
「そうなんだよ。その和泉さんをお前が夢で見たっていうのも、随分と奇妙だけど」
そうだろ、と、小清水が僕に目を合わせた。成る程、確かに妙だ。僕は事件のことも、彼女のことも知らなかった。サッとネットニュースも見てみたが、該当する話は、僅かに冬の行方不明者として取り上げられたものばかりで、顔写真などは見当たらなかった。
「他人の空似かもよ。僕のは、夢だし。写真を撮ったわけじゃ無い。これは僕の絵だ」
逃避のように、僕はそう言って小清水を宥める。不安だった。これ以上、日常が侵食されるような感覚に浸るのは、恐ろしかった。夢を見た時のように心拍数が上がっていた。
「それにしては似過ぎてるんだよ……まあ、説明はつかないけどさ……」
小清水は冷静な男でもある。逐一僕の言葉を真剣に受け止めつつ、現実と照らし合わせて咀嚼する。
二人でうんうん唸っていると、それを嘲笑うように、鐘が鳴った。次の講義が、十分後には始まる。急いでゴミをゴミ箱に放り投げて、僕達は次の講義室に急いだ。
毎度のことではあるが、退屈極まりない先生の声に、僕はうとうとと意識を失いかけていた。悪夢を見た影響もあるだろう。真っ直ぐ線を引けない僕の指は、ノートすら取れなくなっている。隣で真面目にシャープペンを動かす小清水に頼る気で、僕は自ら暗闇に陶酔した。
卵が二つ、ドアポケットに入っていた。僕が開けていたのは、冷蔵庫だった。牛乳と、焼そばが三食作れるだけの材料が入っている。僕はそれをボーッと眺めていた。暫くして、早く閉めろと冷蔵庫がピーピー鳴き始めたので、ドアを閉めた。はあっと息を漏らす。まだストーブが炊けていないからか、息が白かった。ガスコンロで湯が沸く音がした。熱い紅茶を淹れようという算段で、茶請けを探していたことを思い出す。僕は自然と冷凍庫に手を伸ばしていた。キッチリ閉まった扉の取手に手をかける。少し力を入れて、腕を引いた。蹲み込んで、室内の空気よりも各段に寒い冷気を顔面で感じる。
僕はラップに包んでいた、足の親指を一つと、赤い塊を取って、出していた皿の上に置いた。丁寧にラップを取って、包丁でさっくり切り分けていく。暇を持て余した口で、親指を舐める。アイスキャンディーのようなそれは、甘く感じた。沸かしていた湯が冷め始めているのを思い出して、僕はカップへ湯とティーバックを入れた。緩やかに過ぎていく時間が、酷く心地良かった。
僕は頭への巨大な衝撃で、自分の垂らしていた唾液の中に顔を突っ込んだ。机の上には、僕の体液でぐしゃぐしゃになったノートが一つ。隣には、青ざめながら苦笑いをしている友人が一人。
「授業三回分のノートを駄目にして見る夢はさぞ気持ち良かっただろうな」
皮肉を交えて僕に睨み付ける先生が一人。
「すみません、ちょっとゲロ吐いてきて良いですか?」
そして、夢で人肉を貪って、現実で吐き出しそうな僕が一人、込み上がる胃酸と理性を競い合わせていた。
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