金曜午後8時27分居酒屋のトイレにて

甘木 銭

金曜午後8時27分居酒屋のトイレにて

 飲み会の輪を抜けて男子トイレに入る。

 個室のドアを閉めて便座に腰を下ろすと、正面に来たドアの内側に、A3ほどの紙が貼ってあるのに気がついた。

 ラミネートされたその貼り紙には、手書きでこんなことが書いてあった。


『こんなところで失礼致します。そして、この文章を読んで下さっているあなた、本当にありがとうございます!

 お客様とゆっくりお話できる場所はどこかと考え、ここならばと思い貼り紙させて頂きました。

 お酒には、お料理には、サービスにはご満足して頂けましたでしょうか?

 満足したところ、もしくは改善して欲しいところがあれば、お席に置いてあるアンケート用紙に記入しスタッフまでお渡し下さい。

 お客様に満足していただけることが、我々にとって何よりのモチベーションです!』


 なんだかいいことが書いてある。

 少し長いが、トイレの手持ち無沙汰な時間を潰すのには丁度いい。

 ここまでならまあよくある貼り紙だが、文章はそこで終わらない。


『さて、それはさておきまして』

 さておくのかよ。


『開店以来幸いにもお客様に恵まれ、当店も最高のサービスをお客様にお届けするため心掛けて来ました。しかしお客様の中には、スタッフに横柄な態度をとったり他のお客様に迷惑をかけるようなお客様とは言えないようなお客様も、少数ではありますがいらっしゃいます。(これを以下、輩と致します。)』

 輩と致しちゃうのかよ。


『そのような輩はお見かけ次第警告し、聞き入れていただけないならば店長の判断で退店をお願いすることがございます。また、他のお客様からご報告があった場合にも同様に退店をお願い致します。』

 こんな風に警告されては自分の態度も見直さずには居られない。

 店員さんに、どんな態度で注文したっけ?


『しかし、「俺たちが金を払っているんだからこの店はやって行けるんだろう」と思う輩もいらっしゃるかもしれません。』

 また輩か。

 なるほど、こういう思考自体が既に輩なのかも。


『当店ではありがたいことに、輩を除くお客様からの売上のみで経営を続けていける利益がございます。むしろ、輩の言動によりお客様が店内で気持ちよく過ごすことが出来ず、スタッフが意欲を持って働くことが出来なくなると、むしろ当店にとってはマイナスになりかねないのです。

 当店のお客様に輩は必要ありません。』

 この辺り、心做しか手書きの文字に勢いがある。


『当店は全てのお客様に最上のサービスをお届けするために精進致します。

 お客様に置かれましては「店員は奴隷ではない」こと、「他ののお客様も沢山店内にいらっしゃる」ことの二点だけ、ご理解頂けますようよろしくお願いいたします。長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。』

 貼り紙に書かれた文字はそこで終わっていた。


 なんだか不思議な気分になって、胸の奥がムズムズとした。

 パンツを下ろしていなかったらスタンディングオベーションをしていたかもしれない。


 水を流して個室を出ていく時、トイレ全体がとても綺麗なことに気がついた。


 席に戻ると、アルハラ課長が店員に連れていかれるところだった。

 席を立つ前に頼んだ生ビールを持ってきてくれた店員さんに、笑顔で「ありがとうございます」と答える。

 にこやかに「ごゆっくりどうぞー」と言って立ち去っていく店員さんの後ろ姿を見送りながら、苦い液体を喉に流し込んだ。


 金曜の夜はまだ長い。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金曜午後8時27分居酒屋のトイレにて 甘木 銭 @chicken_rabbit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ