彼女の右側の顔

もと はじめ

彼女の右側の顔

 目の前には林があった。


 入り口の途中まで砂利が敷き詰められているが、生い茂った木々の葉で影が濃く落ちているあたりでそれは途切れ、生い茂った雑草やらが踏み倒されてできた細い獣道へと繋がり、林の奥の暗がりへと続いている。

 風景全体が巨大な生き物の、まだらな皮膚のようだった。


 僕らはその林の手前に置いてあったベンチに座っていた。疲れたとか、何かを待っていたとか、そういったわけではない。ただ、二人で歩いている最中から、おそらくお互いに、居心地の悪さを感じていて、話すべき話題を見失い、相手の呼吸の醜さを覚え始めたとき、都合良くそのベンチはあった。

 僕らは何も言わず、そう決まっていたかのようにベンチに座った。


 僕が右側に、彼女が左側に。


 風はなく、林には動きが全くなかった。まるで僕らに見つめられて委縮し、息を殺しているようだった。あるいは僕らが視線を外し、立ち上がったところを狙って襲い掛かる手前のようにも見えた。何らかの緊張感が林から発せられていた。


 僕らはベンチに座り、目の前の林と対峙している。


 それは少なくとも僕にとっては不本意なことであったし、彼女にとっても望むことではなかったはずだ。しかし、成り行きとはいえ、僕らはこうした状況に陥ってしまったし、彼女はそれについて受容しているようだった。

 彼女は林の奥の暗がりを見つめている。時折思い出したかのように瞬きをした。


 右側の彼女の顔はとてもきれいだった。

 学校で過ごす彼女とは別人といっていいくらいに違って見え、凛々しく、刺すような鋭い目つきをしていた。目と鼻と口と耳。右横から見る顔の部位がそれぞれいつもと違って見える。まがい物のブランド品と本物の一級品くらい差がある。それくらい今の彼女はきれいだった。


 「それじゃ、普段の私はまがい物なの?」

 彼女が口を開いた。


 僕はしまった、と思い、人差し指でこめかみをつついた。困ったときに僕がいつもする癖だった。頭蓋骨を通してコツコツと音が鳴る。そして僕は言い訳を考える。


 「いいのよ、別に。言いたいことはわかる。けど、もっと言い方ってものがあるんじゃないかって話よ」


 その通りだと思う。

 僕は非を認め、一つため息をつく。そして彼女の顔を見る。彼女は僕を見ている。横目ではなく、正面からだ。澄んだ目だった。しかし、先ほどの横顔と比べて少し見劣りする気がした。


 それを感じてだろうか、彼女は再び林に視線を移した。先ほどと同じ横顔。僕はそれを見て安堵した。やはり彼女は横から見るほうがきれいだ。もっと正確に言うなら右側の、彼女の横顔だ。

 左側からだとこうもきれいに見えないかもしれない。僕はそれについて判断がつかない。


 彼女の左側の顔について、僕は参考になる記憶を持ち合わせていない。彼女の、ぱっとしない正面の顔はいくらでも思い起こすことができるが、彼女の左側からの顔についてはうまくイメージができなかった。横顔の美しさ、それは片方にしか発揮されないのか、両方に発揮されるものなのか。判断ができない。


 僕が考えに耽っていると、いつの間にか彼女は立ち上がっていた。視線は林に向けたままだ。僕からは彼女の右側の後頭部が見えた。肩まで伸びた黒い髪の毛の間から白い右耳が生えるように覗いていた。それは誤って地面に落としたクッキーのかけらのように思えた。


 彼女は林の方へ歩き始めた。砂利を小さな音をたてながら踏みしめ、ゆっくりと奥の方へ。木漏れ日の間を彼女は進む。暗がりに向かって。


 僕も立ち上がり、彼女を追う。


 林の中に一歩入った途端、急に寒気を感じた。それは日影ということもあったが、それ以上の原因があるかのような、特殊な寒さだった。僕は少し足取りを少し緩めたが、すぐに思い直した。彼女の後姿が暗闇になじみ始めていた。


 木漏れ日の光の筋の中を彼女は通過していく。彼女に落とされている小さな光はいつも部分的で全体を照らすことはなかった。肩や足元、頭に背中。足取りも早かったから目まぐるしく彼女の後姿は形を変えた。ちょうど日が右側からさしていたので、後姿においても彼女の左側はよく確認できなかった。僕の脳内で断片的な視覚情報が彼女の全身のシルエットを形成し、彼女を視認している。僕から見て彼女はかなり乱暴な歩き方をしているようだった。がに股で大きく足を開き、草木をなぎ倒しながら一心不乱に前に進む彼女。何を理由に彼女は林の奥へと進むのだろう?


「そんなことわかっているでしょう? あなたのせいよ」


 彼女は立ち止まり、前を向いたまま言った。木漏れ日が彼女の、やはり右側に落ちていた。肩にかかる髪の束をかすめ、背中から膝裏にかけて彼女の姿は断片的に林の中で浮かび上がっていた。全体からすると残りの七割くらいの彼女の姿は林の暗闇に溶け込んでいた。日差しが強く、コントラストが高すぎるからだと思う。しかし、日に当たる彼女の断片は林の中に違和感なく映し出されていていた。小さいころに見た、野外設営された現代彫刻のオブジェを思い出した。彼女の断片は宙で固定された彫刻だった。色彩を伴い、血が流れていることを除いて。


 しかし、なぜ僕のせいで林の奥に進むのか、理解ができなかった。

 帰り道、普段から通っていた通学路の脇にあるこの林にどうして入るのだろう。少なくとも僕はこの林に入ろうと言ったこともないし、入りたいと思ったこともない。それは彼女に至っても同じだと思う。日常の見慣れた光景の一部の林。ただそれだけだ。その先に何があるかなんて知りたくもない。我々の日常にただあっただけの存在。林はあってもなくてもいいものだった。


「いいえ違う。あなたは宿命的にこの林を求めていたのよ」


 彼女は言う。宿命的? 僕は人差し指でこめかみをつついた。彼女が何を言っているかわからない。


「わからなくてもいいわ。だってもう取り返しがつかないもの」


 そういうと彼女は振り返った。先ほどとは反対の、彼女の左側が木漏れ日によって照らされる。


 しかし、彼女の左側の肉体は林の暗闇に溶け込んだままだった。


 あるべき左腕が存在せず、かすかに日の光がかかった腹部は、ペーパーナイフできれいに切り取ったようにそっくりえぐれていた。そして彼女の左側の顔も似たようなものだったが、断面にかすかな赤みをさした黒い輪郭が見えた。


 とてもいびつなシルエットだった。醜悪といってもいいくらいだ。


「これが私なの。あなたがもたらした私。今更どうこう言うつもりはないわ。だから、一つだけ約束して。私が最後。お願い」


 彼女の口元の動きがとても奇妙だった。

 本来、顎があるあたりの部分がないものだから、骨組みの外れた傘みたいにくたびれた動きをしていた。声自体ははっきりしているから、なおさらアンバランスな気がした。

 そして彼女の言葉の一切合切がよく理解できなかった。


 すると彼女は右手を差し出した。ちょうど彼女の手前に木漏れ日があったからそこに彼女の右腕が映った。しかしそれは腕だけだった。手首から先がない。


 僕はそれを見て気付いた。

 いつの間にか僕の左手に何かが握られていた。がっちりと指が絡めてあり、自然に離れることはない硬い感触。急に異物感を覚え、僕は左手からそれを放そうとする。タールのようにベタベタした何かだ。なかなか取れない。僕は力いっぱいそれを放した。赤い何かはボタッと地面に落ちた。僕の体が少し軽くなった気がした。


 慌てた心を落ち着かせ、僕は前を向いた。そこに彼女の姿はなかった。林の中の暗闇が、徐々に完全な暗闇と化してあたりを包もうとしていた。彼女の名前を呼んだが、返事はなかった。


 僕はあきらめて林を出て行った。


 それっきり彼女と会うことはなかった。行方不明か家出なのか、家族が痛ましく捜索するのを町中の人々が目撃した。

 悲しみは皆にも伝染し、希望を捨てまいと全員で懸命に励まし合った。僕も涙を流しながら彼女について、彼女の両親に話した。それは彼女の素行であったり他愛もない思い出話だった。どの話も彼女の両親は深く耳を傾け、やはり涙を流して聞いた。


 しかし唯一、林の件は話さなかった。あの中の出来事は僕にとってもあいまいなことだったし、うまく話すことができないからだ。それについては僕も考えるのを止めようと思う。

 

 すべては悪い夢のようなものだと思うことにした。悪い夢なら覚めればいい。ただ、それだけだ。

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