悩む者と悩まれる者

ブンカブ

悩む者と悩まれる者

 煌びやかに彩られた街の光を後方へと追いやりつつ、青年は一際強くアクセルを踏み込んだ。バスンッと嫌な振動が起こる。この車はもうけっこうな年代ものだ。去年中古屋で買ったものなのだが、店主が「本当にこれを買うのか」と困惑しつつ何度も念を押してきた一品である。


 ところでこの日本には、使い込まれて人の思いがこもった物には心が宿るという話がある。九十九神と言うそうなのだが、もしもそれが本当だとするならば、この嫌な振動も車が青年に対して行った抗議と受け取れないこともないだろう。


 青年は大きくため息をついた。


「あれ、クーちゃんどうしたの?」


 そんな運転手の青年の様子に気づいた助手席の青年が、棒つきの飴をくわえながらたずねてきた。助手席の青年の名前は和哉。チョコレート色の長髪をワックスで後ろへ流しているチャラい男である。


 運転手の青年、通称クーは和哉の何も考えていなそうな笑い顔をルームミラーを通して見つめると、再び視線をフロントガラスに向けてから二度目のためいきをついたのだった。


「今日ずっとそればっかじゃん。クーちゃんらしくないなあ」


 そうだっただろうか。言われてみるとそうかもしれない。言われなければそうじゃない気もする。


「そんなにショックだったの? あんなのよくあることだよ~」


 今日は海に行ってきた。静岡は西伊豆にある青と白のコントラストが見事な海水浴場だった。反対側には大きな山があり、空気も澄んでいて気持ちが良い。クーは海よりも山派だったので、先日和哉に「海に行こうよ」と誘われたときには「近くに山があるならば行ってもいいか」と二つ返事で了解したのだ。


 ところが、和哉は海に着くなりナンパを始めてしまった。おまけに、クーもそれに巻き込まれた。何でも彼曰く「ナンパは二人の方が成功率が高いらしいんだ」とのこと。クーは嫌だったが、その前に彼に買いに行かせたイカ焼きを人質に取られて渋々それに付き合うことになったのだ。


 でも、


「ええー!? イカ焼きにぎり締めた男なんて絶対にいやー!」


 海辺でナンパする男はたくさんいたが、イカ焼きをにぎり締めてナンパに行く奴はそうはいなかった。


 うん、確かに辛い経験ではあった。でも、そんなものはさして問題ではない。


 クーは三度ため息をついた。


「あれ、クーちゃんどうしたの?」


 クーの落ち込んだ姿を見た和哉が眉根を寄せた。クーはそんな彼の能天気な表情をルームミラーで確認すると、すべからく運転に集中する。


「今日はずっとそればっかじゃん。クーちゃんらしくないなあ」


 そうだっただろうか。言われてみるとそうかもしれない。言われなければそうじゃない気もする。


「そんなにショックだったの? あんなのよくあることだよ~」


 今日は山に行ってきた。静岡の方にある大きな森林だった。反対側には綺麗な海岸が見えており、家族連れや若いカップルの客で賑わっている。クーは山が好きだったので、先日和哉に「静岡の方に行きたいんだけど、どう?」と問われたときは勢いで了承してしまった。


 ところが、和哉は山に着くなりその辺に生えているキノコを焼き始めたのだ。ついでにクーもそれを食わされる羽目になった。どうにも彼が言うところによると「毒キノコは派手な色をしているからすぐにわかるんだ」ということらしい。クーはもの凄い嫌だったが、その前に彼に貸していた漫画本が人質に取られてしまっていたので不承不承それを口に運ぶことにしたのだ。


 でも、


「あ~、あんさんら、そりゃ毒キノコだべ」


 毒キノコにあたる奴は意外に多いが、キノコの専門家の目の前で毒キノコにあたる奴はかなり珍しかった。


 あー、確かにお腹に辛い経験だった。でも、そんなものはそれほど問題ではない。


 クーは四度目のため息をついた。


「あれ、クーちゃんどうしたの?」


 顔色の優れないクーを見やった和哉が目を丸くした。クーはどこまでも馬鹿面な彼をルームミラー越しに視認すると、フイッと視線をそらして前方をにらんだ。


「今日はずっとそればっかじゃん。クーちゃんらしくないなあ」


 そうだっただろうか。言われてみるとそうかもしれない。言われなければそうじゃない気もする。


「そんなにショックだったの? あんなのよくあることだよ~」


 今日は海と山に行ってきた。静岡県からの帰り道に使ったのは行きと同じ高速道路。連休中ということもあり、ちょっと混んでいた。


 夕食時になってクーのお腹がグーと鳴ると、和哉はクーに「途中で何か食べていこうよ」と提案してきた。毒キノコにあたって気が滅入っていたクーは二つ返事でOKし、愛車をパーキングエリアへと運んだのだった。


 ところがどっこい、和哉の奴は食堂に入るや否や自分の注文した蕎麦に掻き揚げをドサドサと入れ始めたのだ。いったい何をやっているのかと聞いてみると「カウンターの横の容器にたくさん入ってたんだ。ご自由に入れていいらしいよ」と言ってきた。本当かどうか疑わしかったのでクーは遠慮しようと思ったが、和哉はたくさん持ってきたからと言って、クーの蕎麦の上にも掻き揚げをたんまりと乗せた。


 でも、


「おい、あんたら、堂々と盗みを働くとはいい度胸をしているな」


 ケチャップやマスタードがカウンターに置いてあれば「ご自由に」だが、掻き揚げが置いてあった場合それは「有料」であることは想像に難しくはない。


 ……確かに金銭的に辛い経験だった。でも、そんなものは我慢してやろうと思えないこともない。警察も呼ばれずにすんだし。


 クーは五回目のため息をついた。


「クーちゃん」


 ふと、思い立ったかのように和哉が凛とした声を上げた。ルームミラーをチラリと見上げてその顔色をうかがうと、彼はいつになく真面目な顔つきをしていたのだった。


「クーちゃんが『自分』を外に出すことが苦手なのは知ってる。無口なのもわかってるよ。でもねクーちゃん、そんなオレでも言ってもらわないとわからないことがあるんだ。クーちゃんとはもう長い付き合いだけど、それでも黙ってられたらわからないんだよ」


 棒のついた飴を指揮棒のように振りながら続ける。


「オレ、クーちゃんが心配だよ。クーちゃんって昔から辛い事とか悩み事を全部自分ひとりで抱え込んじゃうじゃん。今だって、今日あったこと以外でため息をついてるって言うなら、それはきっとオレの知らないことが原因で悩んでいるってことなんだよね。だったらそれをオレに話しておくれよ」


 視界の端に映りこむ和哉の眼差しは強く、そしてどこか寂しそうであった。


「悩むことに疲れたら、それを放り出してもいいと思うよ。クーちゃんは頑張り屋だから、きっと神様だって許してくれるさ。クーちゃんを悩ませてるその原因をこの車から投げ出しちゃえ」


 陽炎のようにゆらぐLEDの看板の群れを追い越すと、そこはもう見慣れた風景。自分達の街が近づいてきたのだ。


 ……少し前までは無理だった。さすがに気が引けた。人間としてどうかとも思った。でも、今ならば彼の思いに応えることが出来るかもしれない。それに、友人の口からとはいえ神様のお許しまでが出たのだ。そう、もう思い悩むことはない。だから、クーはそれまで見せたことがないような微笑みを浮かべたのだった。


 そしてクーは天使のような表情を浮かべたまま、和哉とその付近に散乱したお菓子のゴミを車から投げ出すと、嬉々としてアパートへ帰って行ったのだった。


 それはそれは、今までにないくらい清々しい笑顔を浮かべていたと、その翌日、和哉は語っていた。



〈終わり〉

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