刑罰:ゼハイ・ダーエ岩礁城砦脱出 5
「動けば、撃ちます」
と、三つ編みの赤毛は言った。
パトーシェの頭部に雷杖を突きつけながら、その手は震えていない。それなりの覚悟があるのだろう。
「《女神》様には、言うまでもないでしょうけど――大人しくして」
やつはテオリッタではなく、パトーシェを人質に取った。
その理由はよくわかる。
要するに、《女神》を殺す方法を知らないのだ。
頭を吹っ飛ばせば殺せるのか――首を切断すればいいのか。身体に不可逆な破壊を与える方法は? そんな破壊をして、《女神》としての価値を保ったまま交渉ができるのか?
――《女神》は国家の最高機密だ。
神殿と軍は、その存在について様々な情報操作を行ってきた。
第三次までの魔王討伐で、何人もの《女神》が死んでいることも表向きには伏せている。役目を終えて眠りについたとか、戦いによって『神格を喪失』したとか、そんな曖昧な表現を使い、さらに遺骸は隠匿されていた。
だから、民間には《女神》を殺す方法が伝わっていない。
罪人の血で鍛えられた刃でなければ滅ぼせないとか、魔王の死体を燃やす時に出る炎でしか傷つかないとか、そんな迷信めいた説も流布されているという。
本当は人間と同様、心臓を破壊すれば死ぬということも――知識としてではなく、確実に知っているのは、いまはきっとこの世に俺一人だ。
三つ編みの赤毛がパトーシェを人質に選んだのは、それが理由だ。
――いや。それともう一つ。
「聖騎士と《女神》は、互いに一対一の契約を結ぶ存在なのでしょう?」
赤毛の女の言葉には、まだ余裕があった。あるいはそう感じさせるよう普段から訓練を積んでいるのか。
「聖騎士の死は、連合王国にとっても大きな損失のはず。彼女の命は、《女神》と並ぶ取引材料になる」
俺はめまいを覚えた。
なんてことだ。パトーシェの方が聖騎士だと思われているのかよ。たしかに、《女神》と契約する聖騎士の方を人質に取るのは、戦術として悪くない――《女神》は人間を攻撃できないから、放置しても問題はない。
実際に軍事的な戦力である聖騎士を拘束しておく方がマシ。そういうことか。
おおむねその考え方はわかる。わかるが――
「ザイロ、落ち着いてください」
テオリッタは俺の背中をさすった。興奮する獣じゃねえんだぞ。
「成り行き上、あえて誤解を解かない方が、円滑に話し合いをできると思ったのです。その成果もありました。彼女はスアン・ラーン・キルバ。旧キーオ諸島王朝の姫で――」
「……いや。説明はいらねえ。だいたい聞いたから……」
俺はテオリッタの説明を止めた。
スアン・ラーン・キルバ。この赤毛の三つ編みが、キーオ王朝の最後の姫。海賊どもの旗印というわけだ。
こんな迷惑なことをしてくれたやつらの元締めで、『聖痕』を持つ最大の武器であり、戦略の要であり――つまり最大の弱点だ。
「言っておくが、ザイロ。貴様も悪いのだ」
不意に、パトーシェが口を開いた。
「あまりにも人相が悪すぎる。どっちが海賊かわからないほどだ」
「うるせえな……!」
「黙りなさい」
このとき、意外にも俺とスアン姫の意見が一致した。俺が唸ると同時、スアンはパトーシェのこめかみに雷杖を強く押し付けた。
「置かれた状況を理解して。私もできれば殺したくはない。連合王国に求めるのは平和的な交渉です。――早く、あなたたちも伏せなさい!」
「……そうか。私も、あなたの立場には同情する」
パトーシェは小さなため息をついた。
「その立場では、配下を見捨てるわけにはいかなかった。挙句の果てがこの状況だ」
「何を言っているの?」
スアンは眉をひそめた。そろそろ頃合いだろう。俺は冷やかすように声をかけた。
「おい、パトーシェ、助けは必要か? 囚われの姫の役をやりたいなら、付き合ってやってもいい」
「……、馬鹿め。不要だ!」
パトーシェは数秒の沈黙の後、怒りのあまり顔を紅潮させ、最後には怒鳴った。
そして、一瞬だけ体を沈めたかと思うと、右手首でスアンの雷杖を払いのけ、同時に足を蹴った。
「く」
と、スアンは雷杖を放ったが、すでに遅い。
空気が爆ぜる乾いた音。閃光は天井を穿った。
パトーシェの動きは素早い。そのままスアンの手を掴んだかと思うと、絡めとるようにして雷杖を叩き落とさせた。
スアンも反撃はしようとした。拳を固め、パトーシェの腹部を狙う。が、あいつは避けるでもなく、ただ自分からさらに距離を縮めた。
結果、その打撃の速度は殺される。もともと苦し紛れの反撃にすぎない。そうなるとパトーシェの腹筋に対しては、ろくなダメージを与えられない。
「失礼」
とまで、パトーシェには宣言する余裕があった。床を強く踏む音。相手の胸倉と腕を掴んだ投げ飛ばし――だぁん、と強い音がして、スアンは床に転がった。
「ここまでだ。すまないが、スアン姫」
パトーシェは床に膝をつき、まるで騎士のように頭を下げた。
「大人しく降服を――」
俺に言わせれば、その態度はあまりに芝居がかっていて、ついでに勝利を確信して余裕を見せすぎていた。
スアンが口元で何かをくわえるのがわかった。
笛か。
船で見た気がする。あの笛はたしか――と、俺が記憶を辿ろうとする前に、甲高く鋭い音が鳴り響いた。
頭上を、ばきばきと異様な衝撃が走る。
何かが降ってくる。巨大な樹木の塊。
樹鬼だ――ちょうどパトーシェを押し潰すように。それも、かなりでかい個体だ。中庭で見たやつらの倍くらいあるのではないか。それに体表も、黒檀のように黒い。
樹鬼には元になった樹木によって、種族の差があるのかもしれない。こういう話は俺の親父殿が喜びそうだ、などと考えている暇はない。
「む、う」
パトーシェは床を転がり、黒い樹鬼の襲撃に対処しようとした。スアンの取り落とした雷杖がある。
だが、それでは樹鬼を相手にするのは不十分だと、俺は知っていた。
辛うじて樹鬼の下敷きになることは避けたものの、放った雷杖の光はその体表を削り取っただけだ。樹鬼の枝のような腕が伸び、パトーシェの足を掴んだ。何をするつもりか、なんとなくわかった。
樹鬼の性質はほとんど熊と同じだ。
それも恐ろしく器用な熊。
獲物を掴んで、叩きつける。あるいは放り投げる。そういうことをするつもりなのだろう。もちろん俺も、それをアホみたいに突っ立って見ていたわけじゃない。
すでに床を蹴り、飛翔印で跳躍していた。
「仕方ねえな――テオリッタ!」
俺は怒鳴った。その意図は伝わっていたはずだ――テオリッタが空中を軽く撫でるのが見えた。
「ええ! これが相手ならば」
光が瞬く。刃が現れ、降り注ぎ、樹鬼が伸ばした枝の腕を斬り飛ばす。
「私も戦えます。我が騎士――なんとなく不本意ですが、助けて差し上げなさい」
俺は言われた通りにした。
空中でテオリッタの呼び出した剣を掴む。樹鬼は腕を斬り飛ばされたくらいでは止まらない。さらにざわざわと全身をうごめかせ、新たな腕を生やそうとする。
狙うのはその頭部。必要なのは十分な『ザッテ・フィンデ』の浸透。
(ここを吹き飛ばしたら、どうなる?)
俺は落下の勢いで剣を突き立て、そしてすぐに手放した。床で転がっているパトーシェの肩を掴んで抱え、また跳ぶ。
爆音――背中に風圧。あるいは衝撃。
樹鬼が振り回した腕が、俺の左肩――あるいは腕のあたりを引っかいた。痺れるような痛みが背中へ抜ける。大丈夫、余裕で耐えられる。たいしたことじゃない。
ただ、パトーシェを抱えたまま床を転がる羽目になった。テオリッタの方へ――窓際へ逃れるようにまた転がる。目の奥がちかちかして、回転する視界の端に、頭部を吹き飛ばされた樹鬼が倒れるのが見えた。
「――ひゅわっ」
腕の中で、パトーシェが鳥の鳴き声にも似た悲鳴をあげた。これは珍しい。ただ、それをからかっている余裕はない。
「いえ。いえ、まだ……!」
スアンは笛を吹こうとしていた。さらに追加の樹鬼がどこかに控えていたのか?
だが、もう決着はついている。
「ザイロ! 貴様、こ、こういうことをするなら、やる前に一言ぐ――ぐぁえっ?」
文句を言おうとして、パトーシェは言葉を噛んだ。
唐突な轟音と衝撃が、俺たちのいる館を揺らしていた。中庭の方からの衝撃だった。何かが砕ける音が、建物のあちこちを走った気がする。
それに、炎。
窓の一つが砕け、室内に炎が吹き込んだ。俺もテオリッタも、そちらの近くにいなかったのは幸運だった――ちょっと退避する位置を間違えていたら、本当にヤバかったかもしれない。
その一連の原因はすぐにわかった。
窓から竜の頭部が突っ込んできて、咆哮をあげたからだ。
なんとなくわかる。それは威嚇のための咆哮だろう。竜自身によってコントロールされた破壊の意志が伺えた。
でかい鉤爪をかけて首を振ると、たやすく壁が砕ける。中庭の方が良く見えるようになる――そうなると、そちらから聞こえてくる声があった。
「――やあ、どうかな? 同志ザイロ!」
底の抜けたように明るい、ライノーの声だ。
俺がそちらを見ると、ライノーのやつが大きな砲の傍にいるのがわかった。どうやらそいつを館に叩き込んだらしい。
「こっちは終わったよ。制圧完了だ。もう彼らも戦う意志はないらしい! 素晴らしい戦果だよ、あまり殺さずに済んだ!」
ライノーはこちらに手を振りながら、何かを踏みつけた。あいつの足元を這いずり、苦しげに呻いて手を伸ばしてきた海賊の首だ。
ごぎっ、と、その首がへし折れる。
「平和的勝利だよ! 僕の砲甲冑も返してくれるらしい。いやあ、よかった」
ライノーは朗らかに宣言し、首をへし折った海賊を仰向けに寝かせた。そうして指先で大聖印を切る――どことなく事務的な仕草。何が平和的勝利だ。
さらに言えば、転がっている海賊たちの数を見ると、なかなかの激戦だったとしか思えない。
特にジェイスだ。
やつの周囲には、明らかな死体がいくつも横たわっている。それにジェイス自身、ひときわ大柄な海賊の死体を椅子代わりにして寛いでいた。
あいつは本当に人間を殺すことを全くためらわない。その死体を丁重に扱おうという意識も一切ない。
「平和的かどうか知らんが、とにかく終わりだ」
ジェイスの周囲には、竜たちが舞い降りてきている。対空装備さえなければ、こんなものだ。統率された竜の襲撃を人間は防ぐことなどできない。
「さっさと降りてこい。こんなところで無駄な時間を食ってる暇はねえんだよ。ニーリィの治療だ! 船を動かさせろ! ――いや、うん。わかった。大丈夫」
舞い降りて、寄ってきた深緑色の竜に対し、ジェイスは片手をあげてその首元を撫でた。何事か言葉を交わしたようにも見えた。
「――おい! それと肉と果物も、あるだけ持ってこい! チェルビーが言ってる。みんな空腹だ! 空を飛んで炎を吐きまくった分の体力は、お前らで補填しろ!」
深緑色の竜――チェルビーというのだろう。鋭く鳴いて、ジェイスの足に鼻先をつけるようにした。
それはまるで、親分であるジェイスの言い分に賛同するようだった。
「――まあ、そういうことだな。こっちの要求を飲んでもらう」
俺はスアンを見た。
赤毛の三つ編みの女は、唇を噛んでいた。その表情はどこか幼く見える。思ったよりずっと若いのかもしれなかった。
「海賊は今日で廃業しろ。俺たちの手下として働いてもらう。それが嫌なら、全員ドラゴンに焼き殺されるぞ」
スアンは何も答えなかったが、選択の余地など無いだろう。
こちらにはグィオの手下もいる。船を動かすだけなら問題はない。この申し出は、はっきり言って慈善事業だ。俺たちに協力して、このヴァリガーヒ攻めで戦果をあげれば、少しは有利な条件で連合王国行政室――というより軍と交渉できる可能性はあるだろう。
それがわからない相手ではない、と期待したい。
「……私たちの勝利です。それはいいのですが、我が騎士」
そのとき、スアンではなく、テオリッタが口を開いた。えらく不機嫌そうな目で俺を指差している。
「いつまでパトーシェを抱えているのです」
「ああ」
「パトーシェも、いつまで黙って抱えられているのです!」
「……は、はい! そうだ! いつまで抱えている! こ、こんなことは――あっ?」
パトーシェはひどく暴れて、俺の腕を叩いた。痺れるような痛みがある。左肩、左腕。
そのとき俺は初めて気づいた。
少し、血が流れすぎているような気がする。傷跡がかなり深い。抉られている――パトーシェとテオリッタの顔が青ざめたのがわかった。
「待て……なんだこれ」
俺はなんだか寒気を感じた。ちょっと急激すぎる。あるいはこれは、失血のせいではなく、樹鬼が体内にため込んでいる何かの毒物か? そういう性質があるのか?
「少しまずいな。止血だ――それと、聖印、を」
最後まで言葉にできずに、その場に座り込んだ。パトーシェを放り出す形になってしまうが、気にしてはいられなかった。
視界が狭く感じる。
「ザイロ!」
と叫んだのは、パトーシェだったのかテオリッタだったのか。たぶんテオリッタだろう――パトーシェがそんな風に叫ぶところは、なんとなく想像ができない。
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