聖女運用記録:ヴァリガーヒ塩境突破
第一王都ゼフェンテの王城には、ひときわ高い尖塔がある。
王城の東端に突き立つ、鋭い槍の穂先のような尖塔。
その名を《槐の塔》という。
はるか昔、ゼフ王朝の賢人が植えた槐の樹が元になったといわれる塔である。
何世代にも渡って修繕と再建を繰り返しながら、いまもなお聳え立ち、行政の要として使われ続けている。
クラレッグ宰相の執務室は、その塔の最上階に存在する。
連合王国における最大の政治的機構、行政室の最高責任者。
宰相、クラレッグ・オーマウィスク。
いまその男は、執務室の文机に向かって座ったまま、口元を引き結んでいる。ひどく疲弊した瞳は中空に据えられ、何者も映していない――あるいは、強いて映さないようにしているのか。
少なくとも、スウラ=オドにはそう見えた。
「ようこそ、使者どの」
宰相の代わりに立って出迎えたのは、一人の若者だった。
穏やかな顔立ちの青年。それ以外の感想がまるで湧いてこない。見れば見るほど印象が曖昧にぼやけていくような、そんな青年だった。
「秘書のフーシュです」
と、若者はそう名乗って一礼した。
口元に薄い笑い。その笑みからも、どういう感情も読み取れない。スウラ=オドには他人の心中を読む自信などなかったが、それでもこの男は際立っていた。
「あなたのお名前を窺ってもよろしいでしょうか? アバドンからは、人間の使者が遣わされるとしか聞いていなかったもので」
「俺の名前はどうでもいいだろう」
スウラ=オドは名前の開示を否定した。
気味の悪い予感に襲われたからだ。根拠など何もないが、この男には名前を――通り名でさえも教えたくなかった。
「そうですか。同志として交友を結びたかったのですが。なにしろあなたは、ここまでいとも容易く侵入できる腕の持ち主だ」
「無駄な世辞はやめろ。お前がそのように手配したな?」
スウラ=オドはフーシュと名乗った秘書を睨んだ。
「あまりにも警備が手ぬるすぎる。そこの男も、本物の宰相なのか? その有様を見ると、まるで彫像だな」
「ええ。疑いなく。この方が宰相ですよ。連合王国行政室の最高責任者――」
フーシュは宰相に向かって一礼した。
「どうぞご挨拶を、クラレッグ閣下。我々の同志です」
「――ああ」
ぎこちなく、宰相が首を上下させた。うなずいたのだ、とスウラ=オドは遅れて気づく。
「アバドン様の使者を歓迎しよう。ようこそ、我らが行政室へ」
応じながら、宰相はフーシュを一瞥した。その視線には、確かに怯えが含まれている。こっちの男は、ずいぶんと感情が読みやすい。
「これで良いのか、フーシュ」
「閣下が良しと思われるなら、私に意見などございません」
「なるほど」
ふん、と、スウラ=オドは鼻を鳴らした。
「見事な傀儡だな」
「いえ。決してそのようなことはありません。閣下は自らの意思で、我々『共生派』の思想に協調しておられます」
「とてもそうは見えんな」
スウラ=オドは目を細め、宰相を見た。
彫像のような表情。それは単に疲れきって、顔の筋肉を動かすことさえ難しいだけのように見えた。その目に浮かんでいるのは諦めだろうか。
「俺にはわからないな。連合王国の宰相がこちら側の――『共生派』の人間だとするなら、すぐにでも決着をつけられるのではないか? 人類の敗北は決まっている」
「そこまで事態は簡単ではない」
宰相は眉間に皴を寄せ、呻いた。
「連合王国には軍があり、神殿があり、そして王家がある。権力がそれだけ分散している以上、私の一存で動かせる物事は驚くほど少ない。行政室も一応は議会制ではあるからな」
神殿、王家。
どちらもスウラ=オドが意識の片隅にさえ置いたことのない権力機構だった。かろうじて理解できるのは軍部くらいのものだ。
「ゆえに一刻も早く、権力の掌握を急がなければならぬ」
宰相は忙しなく、指の先で机を叩いた。
「神殿はうまくいきかけていたが、先手を打たれた。このことはまるで理解できん。今後はヴァークル社の動向を見張る必要がある」
喋りながら、徐々に宰相の瞳が暗くなる。額と首元に汗が浮き出すのがわかった。この寒気のするような部屋で。
「それに、軍。王家……議会にも、私を追い落とそうとする者がいるかもしれぬ。勝たねば。すべてを支配しなければ……私に待っているのは、破滅だ」
「ご安心を、閣下。恐れることはありません。閣下の望みはすべて叶えられるでしょう」
そう囁いたフーシュの言葉には、労わるような響きがあった。
「確かに神殿については失敗しましたが、軍の方はうまくやっています。我らのネルガルが総帥を殺害しました」
驚くようなことを聞いている、とスウラ=オドは思った。
軍の頂点にある総帥が急死したと聞いている。やはりあれは暗殺で、『共生派』の仕業だったのだろう。それも、なんらかの魔王現象が動いたらしい。
「では、王家はどうだ」
宰相はまだ落ち着かない様子で、かすかに苛立った目でフーシュを見上げた。
「王は制御できている。第一王子はどうだ。婚礼の件は?」
「こればかりは難しいでしょう。春季攻勢の計画が出ている以上、いまの状況では、婚礼は戦の後でという口実を崩せません」
「では、軍……軍だ。冬季のうちに軍の中枢に婚儀を要請しろ。家族を作らせ、動きを止めるのだ。いつものように」
スウラ=オドには、宰相の言っていることが少しはわかる。
魔王現象が得意とするやり方はすでに知っていた。
利益をもって人を篭絡し、それが通じない相手は家族を人質に取る。
それも、ただ単に攫って脅迫するという意味ではない。その子供や配偶者、場合によっては両親や友人を病や貧困で苦境に追い込み、それを救ってみせる。
そして共生派に協力しなければ、その救いを奪う。
こうすることで、強い精神を持つ人間ほど『共生派』に与させることができる。
家族や大事な人間がいなければ、婚礼や縁組などで作らせる。宰相という立場は、それを遂行するのに最適なのだろう。
問題は、それほど多くの人間を『共生派』に引き入れることができない点だ。
すべてが終わった後、人類を魔王現象が支配する状況になってから、『共生派』は管理者として君臨することになる。少なくとも、魔王現象はそのように約束する。
せいぜい、全人類の千分の一。
その程度が真の『共生派』として許される人数だろうと思われた。
「問題ございません。すべては必ず閣下の望みのままに」
と、フーシュはまた囁いた。子供をあやすような声だ、とスウラ=オドは思った。
「必ず実現します。私との約束をお忘れですか?」
「……いや」
宰相は細く長いため息をつき、椅子にもたれかかった。
「忘れてなど、いない」
「では、ご安心を。――使者どの。アバドンにお伝えください」
それきり宰相は黙り込む。フーシュはその様子を眺め、穏やかに微笑すると、やけによく通る声で告げる。
「聖女計画は順調に推移しています。現在、マルコラス・エスゲイン総帥の下、《聖女》ユリサ・キダフレニーを旗手に戴く特別な部隊を編成中です。春季攻勢において、第十一聖騎士団と並ぶ主力となるでしょう」
ユリサ・キダフレニー。
その名前はすでに連合王国に轟いている。
第二王都を解放した《聖女》。伝説の再来。悪夢に終わりをもたらす者。《女神》の力をその手に宿した、選ばれし聖なる乙女。
「ヴァリガーヒ海峡を回り込み、塩境と呼ばれる湖畔地帯の制圧を第一目的としています。その後、砲撃都市ノーファンの奪回を目指すことでしょう」
「それは、問題ではないのか?」
「そこまでは想定通りです。かつての人類が犯した失敗を、そのままなぞる結果になるでしょう。結局のところ――聖女計画の欠点は、あの頃と何も変わっていません」
「だが、忘れていないだろうな。これはトヴィッツ・ヒューカーからの伝言だ」
スウラ=オドは釘を刺しておくことにする。
「例のわけのわからん部隊。懲罰勇者部隊といったな。やつらを軽視するべきではない」
「意に留めておきましょう。手は打ちます」
「……そうできるなら、そうしろ。戦場でまともに相手をする連中じゃないからな」
そうして、スウラ=オドは彼らに背を向ける。
「話は終わりだ。うまくいくんだろうな、この戦いは。俺は負ける側につくのは御免だ。報酬にありつけないからな」
「ええ。きっと、我々は勝利するでしょう。皆さんがそう望む限りは」
フーシュの表情は確認するまでもない。
あの穏やかで、毒にも薬にもならないような微笑を浮かべていることだろう。なんの印象も抱かせないような、曖昧な微笑を。
「人々の望みを叶えることこそが、私の権能ですからね」
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