休暇行動管理簿:探偵女神テオリッタの事件簿 1
よく考えてみなくても、それは最初から失敗していたのかもしれない。
そのつまらない事件の発端は、俺とテオリッタの不注意によるものだった。間違いなくそうだ。
修理場から第一王都までの道のりは、気楽なものであるはずだった。
雪の降る『くろがね』街道を北東へ、あえて遠回りをしてのどかな山道を経由し、宿場の景色と料理と温泉を楽しむ。年明けまでに間に合えばそれでいい。
俺もテオリッタもそのつもりだった。
いつになくはしゃいだ様子の《女神》テオリッタは、しきりと「小休憩」をせがんだりもした。
「見てください、ザイロ」
と、俺の背中にしがみつきながら、テオリッタは頭上を指差した。
雪の積もった赤樫の枝から、いままさに鮮やかな翼の鳥が飛び立つところだった。
「すごく綺麗な鳥ですよ! ほら、いま! いま飛びました! 見えましたか?」
「あれはアシュカラだな」
それなりの高度にしか生息しない鳥だ。翡翠色の翼を持ち、蜂のように素早く羽ばたく。『空飛ぶ貴石』とも呼ばれる鳥。もうそんな鳥の姿が見える地帯に差し掛かっている。つまり――
「そろそろ温泉宿が見えてくるはずだ。『カッツ・ヤーファ』。旅の温泉宿」
「ええ! すごく楽しみです!」
俺の胴体に回された、テオリッタの腕に力がこもるのがわかる。
「温泉だなんて! こんな美しい景色を眺めながら、のんびりと数日過ごせるなんて! しかも美味しい料理も作っていただけるのですよね? まさにこの世の楽園ではありませんか!」
「金さえ払えばな」
俺は手持ちの軍票のことを考えた。
この前の作戦の成功によって、多少はまとまった額面を支給されている。温泉で一泊するには十分なはずだ。
「これから行く宿は、前に友達と見つけたんだよ。穴場ってやつだな。そのときは行軍中だったんで泊まれなかったんだが、遊びに行く予定は立ててた」
結局、その予定は果たされず、いまに至る。
リュフェン・カウロン――第六聖騎士団長は、いまだにあの惚けたツラで真面目に仕事をしているのだろうか。きっとそうだろう。俺と違って他の団長とも上手くやれていた。その分だけ仕事を押し付けられる性分ではあったが。
あいつみたいな真似は、俺にはできない。
「実に楽しそうですね! ねっ? 私、あれもやってみたいです! あの……木の棒に糸をくくりつけて、魚を捕獲する……」
「釣りだな。いいんじゃないか? ちょうど川沿いの宿だ」
かくいう俺も、釣りは嫌いじゃない。この手の狩猟話になると、ジェイスはやけに釣りに対して渋い顔をするが、草原の連中はどうも魚に対して偏見がある。
草原ではその手の資源が乏しいせいか。あるいは調理法の違いとか。あいつらには魚を香ばしく炙って食べるということが理解できないのかもしれない。
「料理も楽しみです。温泉宿というのは、食事も素晴らしいものだと聞いています」
「詳しいな。誰から聞いたんだよ」
「ケルフローラです! 私たちは《女神》仲間ですから!」
「あいつ、そんなネタで喋ることあるのか……」
ケルフローラというのは、銀髪でいつも澄ました顔をした第八聖騎士団の《女神》だ。俺にはそもそもあの人形のような《女神》が喋っているという場面が想像できない。
「まあ、料理が楽しみってのは同感だ。俺もたまには他人の作った美味いメシを食いたい」
「むっ。ザイロ、最近の朝食は私が作ってあげているではありませんか!」
「だいぶマシになったよ。ただ、さすがに食材がな」
行軍用の保存食だけでは限界がある。燻製肉とチーズ、ビスケットに干しブドウのおやつばかりではさすがに飽きてくるものだ。肉麩よりは百倍マシだが、俺もそろそろ新鮮なメシに飢えてきた。
ともあれ、そんなやりとりをしている間に、温泉宿が見えてくる。
記憶と何一つ変わらない。
小さいが清潔な佇まいの二階建て。煮炊きの煙。よく働く従業員。昼の太陽を浴びて輝く、雪の積もった屋根――のはずだった、のだが。
「……なんか、雰囲気が変わったな」
馬から降りて見上げる宿は、どこか傷んでいるように見えた。
建物の中がやけに薄暗く感じる。汚れが目立つのだろうか? 掲げられた看板も、やや黒ずんでいるような気がする。
(なんだ?)
違和感がある。俺はその正体を突き止めるべく、窓に目を凝らした。
一階から二階へと視線を移動させるうちに、気づく。誰かがいる。それも、こちらを見ている――確かに目が合った――と思った途端に、そいつは窓際から離れて見えなくなった。
ずいぶんと背の高い、というより、大柄な男だったように思う。あるいは俺よりも背丈は上だろうか。
「たどり着きましたね! ここが温泉旅館ですか……!」
俺が人影を目で追っている間にも、テオリッタは目を輝かせていた。
こいつには違和感などわかるはずもない。温泉に対する期待に溢れている。そのままの目で俺を振り返った。瞳が炎の色に燃えている。
「早く行きましょう! 入りましょう! 歓迎されて温泉しましょう!」
「……ああ」
なんにせよ、厩の方に数頭の馬が繋がれているところを見ると、客はいる。少々くたびれているのが気になるが、営業していないということはないだろう。
そうして俺たちが入口に立ったときだ。
小柄な人影が、その内側からぬっと頭を突き出してきた。
「――わ!」
と、テオリッタが驚いてのけぞるほど唐突だった。
どうやら女――であるようだ。年齢は定かではない。なぜなら、フードを目深にかぶり、顔がろくに見えなかったからだ。口元まで首巻で覆っている。
(なんだ、こいつは)
俺はそう思わざるを得なかった。
小柄な女はテオリッタがのけぞるという反応を見せても、まるで無言だったからだ。
その陰から細い目がこちらを睨むように見ていた。警戒するような、何かを見定めるような目つき。
宿の名前が刺繍されたエプロンをつけていることから、かろうじて従業員だろうと予想はつく――だが、だとすると不自然すぎた。せめて歓迎のあいさつくらいはあっても良さそうなものだろう。
そのままテオリッタも俺も呆気にとられて、小柄な女と睨みあうこと数秒。
先に声をあげたのは、テオリッタの方だった。
「あ、あの、すみません。この宿の方ですか?」
疑問形で尋ねたが、それにさえ反応がない。無言。いたたまれなくなったように、テオリッタは言葉を繋げる。
「私たちは旅の者です。こちらの温泉宿に、その、宿泊させていただくために参りました。こちらの不愛想なのがザイロで、私がテオリ――」
「こいつはテオドーラだ」
俺はすぐにテオリッタの自己紹介を封じた。
万が一にも《女神》だと思われたら面倒なことになる。積極的に偽名を使っていくべきだった。
「俺の妹」
「むっ」
テオリッタはなんとなく不満そうな顔で見上げてきたが、俺は構わずその頬に手をかけて、前を向かせた。
「なあ、部屋は空いてるか? 泊めてほしいんだ。できれば朝夕のメシつきで。支払いはガルトゥイルの軍票しかないんだが、使えるよな?」
「――ええ」
少々の沈黙はあったが、小柄な女はそういう呟きを漏らした。
はじめて口を開いた、その声はやっぱり年齢不詳なものだった。しわがれているような響きがある。軽く咳き込みながら喋る、そんな癖のせいかもしれない。
「ございます。……一室だけ、ですが。それでよろしければ。お支払いも軍票で問題はございません」
「そりゃよかった」
俺は精一杯――俺にできる限りの精一杯で、愛想のいい笑顔を浮かべた。
少しはこの受付の女から、マシな反応を引き出したかったからだ。ごくまれに、山奥の宿なんかだと俺は野盗と間違われることがある。
このときも、それを警戒されたのかと思った。
「助かるよ。部屋へ案内してくれないか?」
俺は軍票を差し出しながら頼んだ。先払いなら警戒も緩むだろう――という考えは、結局は無意味だった。
小柄な女は無言のまま、そろりと入口を開けた。
いまだに疑わし気な目つきのまま、俺たちに入るよう促すこともない。ただ、一つの鍵だけを突き出すようにしている。一の六号室。そう刻まれた鍵だった。聖印式ではない、昔ながらの質素な金属鍵。
仕方がないのでそれを受け取り、俺はテオリッタと顔を見合わせて、宿へと足を踏み入れた。
――その瞬間、また強烈な違和感を覚えた。
周囲から視線が突き刺さってくるような感覚。そういうものに疎いテオリッタもびくりと体を緊張させた。
静まり返った廊下だったが、多くの人の気配は確かにある。
あちこちの客室。あるいは従業員だろうか?
「なあ、従業員さん。あと一部屋しか空いてないなんて、今日はなかなか繁盛してるみたいだな」
俺は受付の小柄な女に声をかけた。再び、愛想よく。
「この宿、二階もあるんだろ? 軍人も泊まってるのか? 上の方にずいぶんデカい客がいるよな」
「――そうだとしたら」
小柄な女は、その目をいっそう細めた。
「どうだと言うのですか?」
「いや。近頃はこの辺も物騒だからな。軍人も泊まってるなら安心だと思ってさ」
「……そうですか。それは奇妙ですね」
陰になっていてわかりづらいが、小柄な女は眉をひそめたようだった。
「そのようなお客様は泊まっておられません。従業員にもおりません」
返事はそれだけで、小柄な女は踵を返し、宿の奥へと歩み去っていく。
素っ気ない、という態度を通り越している。客の雑談に応じないくらい忙しいのか? しかもそんな客も従業員もいないときた。俺よりデカい人間なんてそう多くはないだろうし、印象にも残るはずではないか。
だったら、俺の見間違いか? そうでなければ――
「――あの、ザイロ。これは本当にあなたの言っていた『温泉宿』なのですか? なんというか……歓迎されているような気がしないのですが」
「かもな」
確証は何もない。
ただ、どうも嫌な予感がするのは事実で、残念なことに俺のそれは良く当たる。
それはもう、ものすごく的中する。
「それに、その、なんだか見られている気がしませんか?」
「よく気付いたな。だったら方向はわかるか?」
「……方向ですか?」
「さっきはあちこちから注目された感じだったが、いまは一方向からだ。つまり」
俺は廊下の奥を見た。俺たちの部屋の隣だろう。一の五号室。
そこのドアをわずかに細く開き、誰かがこちらを窺っている。痩せた人影。
「いったいなにを警戒されてるんだろうな」
という、俺の呟きが聞こえたわけでもないだろうが、そのドアは音もなくすぐに閉じられた。一瞬だけ垣間見えたその人影の顔に、引きつれたような火傷の痕が見えた気がした。
「温泉だけ浸かって、さっさと出てった方がいいような気がしてきた」
「そうですね。温泉だけは確実に浸かって」
「あとできれば飯も食いたいんだけどな」
「それも絶対必須です」
「それとクソ寒くない寝床」
「欲しいです! そのために山道を旅してきたのですよ、今日こそは!」
「……ありつけるといいな」
後になって思えば、俺たちはものすごく呑気すぎた。
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