休暇行動管理簿:ベネティムの大いなる奇跡 3
タツヤの行動は迅速だった。
一瞬、獣のようにうずくまったかと思うと、弾けるように跳んだ。
ベネティムの目からは、黒ずんだ風が吹き抜けたようにしか見えない。
降りしきる雪のせいで、その片手が戦斧を振るうと、吹雪の渦が生まれる。それは塀の上から雷杖を撃って来た襲撃者を一撃で仕留めた。
胴体――胸から上が吹き飛ぶ。鮮血。
タツヤの動きに躊躇はない。そのまま瞬時に二人、左右。戦斧の刃が喉と腹部を抉り裂き、絶命させた。
(タツヤこそ、懲罰勇者の中でも最強だ)
血飛沫と肉片が目の前に降ってきて、ベネティムは吐き気を覚えた。
いまだにこれは慣れない。
(ザイロもジェイスもパトーシェも、単純な戦闘ではきっと勝てない)
ベネティムにはその確信がある。
単なる力比べや、俊敏な身体能力というだけの意味ではない。
タツヤという男は根本的な何かが違う。人間とはかけ離れている。それに、ベネティムは知っている――あのジェイスの相棒のニーリィが、タツヤに対しては一歩引いたような態度を取ることを。
時にニーリィはザイロやライノーですら子供扱いするようなところがある。言葉こそわからないものの、態度でわかる。
それが、タツヤにだけは別なのだ。古い先達のように接する。
あるいは何百年という樹齢を重ねた、年老いた大樹へ敬意を捧げるような――
「貴様、ベネティム」
ベネティムが思考をさまよわせたのも束の間、兄が襟首をつかんできた。
フィジウスの目が火のような怒りを湛えている。昔からこの目が苦手だった。もしかするとまだ殴り足りないのかもしれない。
「……わからないことがある」
と、絞り出すようにフィジウスは言った。
「お前がどうやって共生派と渡りをつけた? そして、どうやって動かした? 私が貴様となんらかの密約を結んでいるはずがないと、少し考えればわかるはずだ! そんな無能が共生派にいるのか?」
そう尋ねられたとき、ベネティムはぽかんと口を開けた。
まさか、この兄にもわからないことがあるなんて。しかも、これほど簡単で自明なことを。優越感ではなく、単純な驚きがあった。
「――共生派の人が誰かなんて、私にはわかりませんでしたけど」
なんだか少し愉快になったが、ベネティムはそれを顔には出さないことにした。
「誰と接触しているかはわかります。それは大司教の中にいるはずです。向こうも神聖選挙を操作しようとしていますから。……あとは推理です」
無論、嘘だ。
ベネティムに推理などできない。アディフ・ツイベルが、大方の容疑者を割り出していたにすぎない。
「特定して接触しようとしましたが、無視されました。でも、そうしたらすごく警戒されるようになって、監視とかされ始めたので……」
ベネティムの視界で、タツヤの影が目まぐるしく動く。その長い手足が伸び、振るわれるたび、血と肉がばら撒かれる。
「全力で言い訳をしました」
「言い訳だと?」
「私は確かにヴァークル社の末席ですが、もう追放されていて、何の関係もないですと。ましてやフィジウス兄さんとは根深い確執と断絶があり、絶対に何かを共謀したりすることはありません――と」
ベネティムはフィジウスから目を逸らした。
その憤怒の形相を直視したくなかったからだ。緩みのない瞳。
「全力で言い訳をしましたが、どうもさらに疑われてしまったようです。私があらゆる証拠をそろえ、言い訳をすればするほどそうなるんですよ……なんでみんな私の言うことを疑うんでしょうね?」
「お前は、なんという――」
フィジウスの手が再びベネティムの襟首を強く引き寄せようとした。
それを恐れてベネティムは体を縮める――その瞬間、鋭い稲妻が、ベネティムの頬をかすめていた。
いや、実際にはフィジウスの肩だ。焼け焦げた匂いと、したたる血の感触。
フィジウスが顔を歪め、苦痛の声をあげる。
屋根の上から、誰かが狙っている。それも、なかなか腕のいいやつだ。タツヤを崩すのは諦めて、遠くから雷杖で狙ってきた。
――という分析を、ベネティムは冷静にしたわけではない。
ただ、反射的に叫んでいた。彼がいま持ち得る、最強の手札。
「タツヤ!」
ベネティムは出血する兄の肩を両手で抑え、叫んだ。
「狙われています、助けてください!」
普通ならばタツヤを呼んでも間に合わない、と判断する場面だろう。すぐに次の一射が来る。なんらかの回避行動に移るべきだ。
しかし、ベネティムにはやはりその戦術的な思考ができない。
そしてタツヤはその指示に従い――結果的に実現させてしまう。
「じぃぃっ」
という異様な呼吸音。
タツヤの体が高速で跳ね、そして、戦斧が一閃した。
かっ、という奇妙な衝撃音。一秒ほど遅れてベネティムは気づく――それが放たれた稲妻を正確に弾く音であったということに。
「雷杖の、稲妻を」
フィジウスは顔を歪めたまま、呻いていた。
「弾いたのか。信じられん!」
「これがタツヤですよ」
ベネティムにもまったく理解できない現象ではあったが、ここで自信のないような顔はできない。余裕を装って断言する。
いま射撃してきた相手を、タツヤが追って跳躍するのが見えたからだ。
「もう安全です、兄さん。何人かは逃がしたようですが」
ベネティムは体が急激に冷えていくのを感じる。この兄と対峙したときからずっと、恐怖と緊張による冷えた汗を流し続けていた。
「――改めてお願いします、フィジウス兄さん。我々とともに、人類の敵と戦いましょう! 共生派なんて叩き潰しますよ。見てください」
タツヤが屋根の上の襲撃者に跳びかかり、胸の半分まで戦斧を食い込ませた――かと思うと、同時に頭部を掴み、そのまま力ずくで引きちぎっている。
絶叫。内臓が零れ落ち、タツヤは奇怪な雄叫びをあげる。
「るぅぅああああああ――あああがあああああ!」
その姿は、人類の味方と呼ぶには、あまりにも暴力的で残虐かもしれなかった。
「あれが懲罰勇者部隊の、最強の歩兵の実力です。我々がこの戦いを勝たせてみせます、約束します! 私は尊敬する兄さんとともに戦いたいのです!」
「嘘をつけ……!」
さすがに兄は欺けない。しかし、
「ですよね。ただ、たしかに私の言葉は嘘かもしれませんが、兄さんにほかの選択肢がありますか?」
兄は何も答えない。ただ、ベネティムは再び顔面に衝撃を感じた。
火薬の匂い。激痛。兄の憤怒の表情。拳ではなく肘を打ち込まれたのか。鼻骨が折れたような気がする。
(説教よりも、ずっとこれの方がいい)
鼻を抑えながらも、ベネティムは安堵していた。
一瞬で終わるし、これは相手がベネティムの要求を呑むしかなくなったという意味だ。暴力を振るわれるというのは、おおむねいつも、ベネティムにとって一つの勝利の証であるといえた。
「あの、痛いですよ、兄さん」
「……以前から、お前には聞きたいと思っていた」
ベネティムの言葉をまるで無視して、フィジウスはゆっくりと体を起こす。
そうして見下ろす顔つきは、ベネティムとは似ているが、まるで真逆の印象がある。冷たい鉄の彫刻のような顔だ。柔らかさの欠片もない。
「ベネティム。お前はなぜ、そこまで恥を晒して生きられるのだ。人に迷惑をかけることをなんとも思っていないのか?」
「そんなことはありませんよ。……私だって、兄さんたちのように、少しはちゃんとした人間になりたかったんですけどね。無理でした」
「嘘だな。なろうと思ったことは一度もないだろう」
「そうですね。……昔から兄さんたちのことが理解できなくて。私は私なりに、ちゃんとしているつもりでした」
「それも嘘だ」
「……はは。兄さんは騙せないなあ。そうです。復讐のつもりでした。私は勝手に期待して、勝手に見捨てた父さんや兄さんたちに復讐するために……」
「もういい。そもそも、お前にこのようなことを尋ねたのが間違いだった」
フィジウスは首を振った。
そしてもうベネティムを顧みない。
「置かれている状況は理解した。……ここから先は、お前の背後にいる何者かと話をすべきだろうな。埒が明かん」
父や周囲の期待に応え続けてきた男。ベネティムにとって、それはもはや理解不能な超越者のように思える。
信じられない忍耐力を持った男。
(こういう風に生きられたら、どんなにいいだろう)
と、ベネティムは思う。きっと、確固とした己というものを持っているのだろう。
ベネティムには、もはや自分でも自分の本音がわからない。自分の心の中をどう掬おうとしても、その場しのぎの、目の前の相手をどうにか納得させようとするためだけの言葉しか出てこない。
そもそも内心の言語化というものを、ベネティムは自分からやったことがない。
いつも他人の要請や脅迫によって行動してきた。誰かの望む内容が、そのままベネティムの行動原理だった。自分のために、何か自発的な行動を起こしたことが記憶にない。そうした在り方だけを取ってみれば、それはどこか《女神》にも近いのかもしれない。
いまではその行動の連続こそが、ベネティムという人間に蓄積された事実だった。
(兄さんを尊敬しているというのは、本当だと思うんだけどな……たぶん)
◆
朝のチカータ神殿には、日の光が満ちる。
そのような造りになっているのだろう。
質素だがよく清められた祭壇に光が当たり、静謐で神聖な輝きを帯びている。
ニコルド・イブートンはその前に佇んでいた。
それも、大司祭としての正装で。
「……どんな外法を使ったのか」
ニコルドはベネティムの顔を見るなり、そう言った。
「興味はまったくない。だが、神聖選挙がこの私を指名した以上は、それが神々のご意思というものだろう。拒絶はすまい」
「ありがとうございます」
ベネティムは深く頭を下げたが、ニコルドは眉ひとつ動かさなかった。
そのままゆっくりとすれ違って歩み去る、寸前で足を止めた。その目が、ベネティムではなく、その傍らで立ち尽くす男を見ている。タツヤだ。
「似ているな、その男」
「はい?」
「いにしえの英雄だ。最初の《女神》に仕え、第一次魔王討伐を成し遂げた六名のうちの一人」
ニコルドは振り返り、祭壇の背後に飾ってある絵画に一瞥をくれた。
そこには《女神》と、彼女に付き従う戦士たちが描かれている。黒々としたその人影の群れは、いずれもどこか人間離れしている姿かたちにも見えた。絵画であるから、いくぶん誇張されているのだろうが。
「あの、ニコルド様。その英雄の名前は? なんというのですか?」
「名前はない。すでに失伝した。この伝承を知っている者自体、いまやどれほどいることか」
ニコルドはもう振り返らない。絵画からも、タツヤからも視線を外し、また歩き出す。
「はるかな大文明時代の英雄。第一の《女神》、ヴァウジーラに従う、異世界から来たる聖騎士、とだけ伝えられている」
タツヤはそれになんら反応を示さなかった――いや。
わずかに眼球を動かし、歩き去るニコルドの背を見ただろうか。
珍しいこともあるものだ、とベネティムは思った。
◆
『――目的は果たしたようですね』
その夜、アディフ・ツイベルからの連絡を、ベネティムは自室で受け取った。
彼とだけ繋がる通信用の聖印盤からの連絡だった。これを預けられたこと自体、ずいぶんと気持ちが重たくなったものだ。
『神聖選挙の完了を確認しました。ニコルド・イブートン主席大司祭の誕生です』
「力になれたのなら、よかったです」
ベネティムは心にもないことを言った。得意技の一つだ。
「これで私の役目も終わりですね。状況が好転したようですし、少しは貢献を――」
『と、いう風に、万事うまくいけば良かったのですがね』
アディフの声には、いかにも性質の悪い冗談を満を持して明かすような、そういう皮肉な響きがあった。
『共生派。やつらも当然のように動いていました』
かすかな吐息。どうやらため息をついたようだ。
『神殿側の攻防は、こちらが勝利を納めましたが――軍を狙われましたよ。まさか、ここまで大胆な手を打って来るとはね。これはさすがに予想外でした』
「……あの、それはどういう?」
『軍の頂点、ガルトゥイルの責任者、クレスダン総帥が急死しました』
「……ええと、すみません。まだちょっと理解が……追いつかなくて……」
『病死ということになりましたが、状況が異常です。おそらく暗殺されたと見ていいでしょう。後任は、ガルトゥイル内部の政治的な争いの末、マルコラス・エスゲインという人物が就任しました』
「はあ……」
『どうやら、あまり状況を把握しきれていないようですね』
アディフは出来の悪い生徒にものを教えるような声で言う。
『マルコラス・エスゲインはおそらく共生派ではありませんが、軍人としての能力は欠けています。政治力も大したものではありません』
エスゲイン。
ベネティムはその名前を思い出そうとした。どこかで聞いたことがある。あれは第二王都奪還戦の際のことだっただろうか。
『つまり――都合のいい傀儡になるだろうということです。共生派にとっても、あるいは我々にとっても。どちらが優位に立つかは、目下、どれだけマルコラス・エスゲイン総帥を巧みに操れるかにかかってきます』
「まるで話が見えないんですが……それは私にも関係のあることでしょうか?」
『もちろん。大いに』
アディフの嘲笑うような声の響きが、悪魔のそれのように聞こえた。
『彼を操る政治的なゲームに、ぜひ参加していただきます。ベネティム・レオプール。きみはどうやら役に立つようだ』
そんなバカな、とベネティムは思った。
自分ほど役に立たない人間は珍しいというのに――そして、そう主張してきたつもりだというのに。
(どうして世の中の人間は)
と、ベネティムは思う。
(こうも私の言うことを信じないのだろう)
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