休暇行動管理簿:ジェイスの憂鬱な禁猟 4
これはジェイスが後になって聞いた話だ。
もともとランドール・パーチラクトは、夏の家と第一王都を行き来する、外交官の役目を兼ねていたらしい。
その息子が二人とも、幼少から肺の病気を患っていた。
長くは生きられないだろうと見られていた――が、上の息子は成人し、『夏の家』で文官として働いている。
下の息子も健康に支障はないらしく、奇跡的に病状が回復したとされていた。
病が治った理由はわからない。
話によれば、第一王都の医者の治療を受けたということだった。
その医者の名前は誰も知らない。だが、息子が二人とも健康を回復したというのは、確かな事実だった。
その二人の息子は、その夜、ジェイスが『夏の家』に帰還する頃には死んでいた。
死因は不明。ただ、どちらも肺が黒ずみ、干からびていたという。
さらに母親まで失踪していた。
捜索されてはいたが、見つかる見込みは薄いだろう、とジェイスはなんとなく思った。
「つまり、ですね」
と、シグリア・パーチラクトは、やはり眠そうな顔でそう言った。
薄暗く冷たい、書庫の最奥で彼女はジェイスの帰還を待っていた。まるでその解説を誰かに聞かせたくて仕方がなかったというように。
「魔王現象には、他者の病を癒す権能の持ち主がいるということが推測されます。これは深刻な問題ですねえ。その権能を人類を支配するために使うつもりだというのが、とても深刻ですよ」
彼女の言葉はとめどなくあふれ出ていて、よほど人に説明するのが好きな性質なのだろう、とジェイスは思った。
「こうした戦術の背後には、あるいは他者に病を与える権能を持つ魔王現象も存在しているのではないでしょうか? それとも、どちらも一人でできるのかもしれません。大変な脅威になりますよ。いや、もう実際にそうなっていますね」
シグリアはよほどその『医者』というのが気にかかり、調べを進めたようだった。
それでも、手がかりはほとんど掴めなかったらしい。
相手が第一王都に潜んでいることは確かだが、よほどうまく痕跡を消しているか、あるいは、調査が及ばないほどの権力を持っているかのどちらかだ。
「これこそはまさしく、愛と絆を利用した侵略行動といえるのではないでしょうか? 広い意味での人質行為ですね。自らの苦痛には強い人間も、愛する存在の苦痛には弱い場合がある……という」
シグリアの口調はどこか間延びしていたが、本人に緊張感がないわけではないらしい。
その手が喋りながらも器用に動き、素早く文字を書きつけている。
「家族や大事な方が人質に取られたとき、その人は、人類を裏切らずにいられるでしょうか? ジェイスさん、どう思います?」
「知らん。俺には関係ない」
ジェイスは一言で切って捨てた。
(そう。関係ない)
ニーリィのためなら、自分はきっと人類だろうがなんだろうが裏切るだろう。本来ならば――だが、そうしたとき、ニーリィは決して自分を許さない。
重要なのは、そこだ。
そのことだけが恐ろしい。その恐怖に自分は勝てない。
だから自分は、世界のためならニーリィを見殺しにでもする。ニーリィに失望されることを考えたら、間違いなくそうする。
「……それと、これは私見ですが」
ジェイスが黙っていると、シグリアはさらに付け足してきた。
「今回の襲撃における敵の標的は、マスティボルトの当主だけではありませんね。もしかするとジェイスさん、あなたも狙われていたのかもしれません。……本来の標的は私を想定していたでしょうが、ジェイスさんにお遣いを頼んだことで狙いを変えたのではないかと」
「俺が?」
ジェイスは鼻で笑った。
「懲罰勇者を狙って殺そうとするとは、目が節穴だな。そんな価値があるのか? 確かに俺は撃墜王で無敵だがな――」
ほとんどはニーリィの翼があってのことだ。
そう言いかけて、やめた。黙ることにする。他の人間の前だ。せいぜいでかい態度を取っていなければ。
「ええ。やはり念のため、護衛をつけておいてよかったですね」
「護衛?」
「ええ。ニーリィさんたちが駆け付けたのは、こちらの眼がついていたからです――フィムリンデ」
人の名前だろうか。
シグリアがささやくように呼ぶと、机の上に小柄な生き物が乗り上げた。黒い猫のような生き物だった。草原ではあまり見ない生き物だ――不吉な生き物ともされている。
そもそもジェイスはあまり猫が好きではない。
あの連中は人間や竜を、基本的なところで愚鈍な生き物だと思っている節がある。
だが、そいつは普通の猫と違っていた。
「シグリア。わたしは、有用だったかな?」
と、その猫は口を開けると、はっきりとした言葉で喋った。
それはジェイスにだけ聞こえる声ではない。ちゃんと空気を振るわせて伝わる、人間のような声だった。
その証拠に、シグリアは大きくうなずいた。
「はい。とても。ありがとう、フィムリンデ」
シグリアはその猫の頭を、指先で撫でた。フィムリンデ、と呼ばれた猫が目を細めるのがわかった。
「もう戻っても大丈夫ですよ」
「だが、シグリア。こうした小さな体を使うのはとても疲れる。食事を用意してもらいたいものだ。ずっと書庫に籠りっぱなしで、お前も空腹のはずだ」
「そういえば」
シグリアは何かをごまかすように笑って、本を閉じた。
「空腹でした。何か作りましょうか。シチューはどうですか?」
「ああ。悪くない選択だ」
「では、すぐに」
そうしてシグリアは猫を抱き上げるとジェイスに向かって頭を下げた。
「彼女が私の《女神》です。獣の《女神》フィムリンデ。……失礼します、ジェイスさん」
シグリアの抱えた鞄に、フィムリンデが潜り込むのが見えた。
そうやって、誰かの荷物に隠れてついてきていたのかもしれない。
「また、夜の祭礼でお会いしましょう」
「だったら会うことはないな。俺は出ない」
夜の祭礼というのは、年越しの日にかけて行われる儀式のことだ。
七日間、夜を徹して火を焚き、草原に敷物を広げて、パーチラクトを構成する族長たちが酒を酌み交わす。派手な宴会だ。当然、ジェイスはそれが苦手だった。
パーチラクトの連中は、本当に祭りが好きだ
他に大きな娯楽がないのだから、仕方がないのかもしれない。
「それは残念ですね。――そういえば、ジェイスさん。ザイロくんはお元気ですか? ずいぶんと無茶な戦いをしていると聞きましたが」
「あのアホのことなんて知るか」
「ああ。元気そうで何よりです。仲がいいんですねえ」
ジェイスのいまの言葉のなにを、どう変換してそういう感想に至ったのか。
問い詰めてやりたかったが、シグリアはジェイスの傍らをすり抜けた。
「またいずれ、暇ができたら。いつでも本をお貸ししますと伝えてください。私、ザイロくんの作る詩が結構好きなんですよ」
シグリアの言葉には、どこか懐かしがっているような響きがあった。あるいは何かを惜しんでいるような。
(――詩か)
くだらない、と、ジェイスは思った。
それにしても、ザイロにそんなものを作る趣味があったとは。
◆
夜が更けても、草原の闇は明るく感じた。
それは遮るものの無い月明りのせいであり、それを照り返す雪面のせいだろう。特にその夜は、白い月が出ていた。
その昔、月は神々の住まう場所と考えられていた。
死者が向かう『天』こそが月であると。
いまでは、それが巨大な石の塊であることが知られている。
大文明時代に打ち上げられた、不動の一点、地を照らす七色の輝き。昼のうちに太陽の光を吸い上げて光を放つ。
ただしその本当の役割は、いまでは誰も知らない。
ジェイスはこういう明るい夜にこそ、狩りに出るのが好きだった。
パーチラクトの大草原は、一面の草原だけが広がっているわけではない。特に『夏の家』周辺には、物資運搬の要となる川があり、木材資源の源である森や山もある。
川では魚が、森では鹿や熊を狩ることができた。
かつて竜たちと過ごした子供の頃から、そういう生活が染みついているせいか、ジェイスは狩りが好きだった。
年に一度、パーチラクトの草原に帰って来たときは、狩りはいつも貴重な気晴らしになった。
しかし、今年はそうもいかないらしい。
「森へ入られてはなりません」
と、ジェイスの今年の『世話役』である濃緑の竜はそう言った。
彼女はジェイスが狩猟道具を担いで三歩も歩かないうちに、空から舞い降りて来た。どこかで見張っていたとしか思えない。
「我らの集う『夏の家』からお離れにならないよう、お願い致します。窮屈でしょうが、タバネ殿のためです」
このように主張されては、ジェイスも我がままを言うわけにはいかない。
あのあと、帰還したジェイスを見て、ニーリィはひどく申し訳なさそうに謝った。
そして、せめて自分が仕事を終えるまでは、ジェイスから決して目を離さないように竜たちに厳命したらしい。
それで、この過保護な警備態勢を整えられてしまったというわけだ。
ただでさえ竜たちは人間に対して、年上の兄や姉であるかのように振る舞う。
特にジェイスは、竜たちにとっては、女王の伴侶だ。人間勢力の代表であるかのように思われている。
そして、ニーリィはまだまだ忙しい――年が明けるまでは動け無さそうだ。やることが山ほどある。
聞いたところでは、各地の竜たちと打ち合わせるべきことがあるということだった。
「きっと、今度の北への攻勢が、最後の機会になるよ」
と、ニーリィは言っていた。
「強い一群を作らないと。最後の最後、私たちみんなにとって、果たすべき役目があるから」
――と。
このような有り様だったから、ジェイスも仕方なく竜たちによる警備の下、『夏の家』の裏手にある川で釣りをするぐらいしか気晴らしはなくなってしまった。
そんな気分で釣竿を垂れていても、ろくな魚は釣れない。
さらに言うなら、面倒な相手にも話しかけられることになってしまう。
気づいたのは、ジェイスの警護係も兼ねているらしい濃緑の竜――チェルビーという名だ――が、鋭い警戒の声をあげたせいもある。
ただ、そう気配を消すのが得意な相手でもなさそうだ、とすぐにわかった。
雪の上をのっそりとした足取りで、貧弱そうな男が歩いてくる。
ジャンタレイ・マスティボルト。
もう名前と顔は覚えた。
「ここにいたのか、ジェイス・パーチラクト」
チェルビーに鋭く睨まれ、行く手を阻まれても、その男はまるで臆した様子がなかった。
「話がしたかった」
「俺はしたくない」
「そうだ。失せろ、人間。不敬だぞ」
チェルビーは牙を剥き出し、ジャンタレイの歩みを阻もうとした――だが、ジャンタレイはやっぱり止まらない。
この調子では、噛みつくことはないにしても、転んで怪我でもするかもしれない。なにしろこの男にはチェルビーの警告は聞こえていない。
ジェイスはため息をついて、チェルビーを制止するしかなかった。
「チェルビー。いいよ、この人間は一応客なんだ」
「しかし、タバネ殿」
「――いい竜だな。草原の竜は、やはり違う」
ジャンタレイは不服そうなチェルビーの鼻先から顎、喉にかけての輪郭を見つめた。
無遠慮な視線に、チェルビーはさらに警戒を強めたようだが、やはりジャンタレイの表情は少しも変わらない。
「顎から喉の筋肉がまったく違う。ただ噛みつく力が強いだけではない。鳴き声が特殊なのだ。他者と意思疎通する手段が豊富であることを意味している」
それから、ジャンタレイは足元に視線を這わせる。
「先ほどから私に警告しているが、あなたを守ろうとしているようだな。これ以上近づいたら転ばされそうだ」
言った通り、チェルビーの尾が雪面に触れていた。それはそのままジャンタレイを足払いできるような、準備動作だった。
「ジェイス・パーチラクトが竜から尊敬を集めているというのは本当のことらしい」
「――何の用だ」
ジェイスは不機嫌な顔を作って、釣り竿を軽く上下させた。
「俺はあんたに用はない。いま、釣りをしてる最中なんだよ。見てわかるだろ」
「まだ、礼を言っていなかった。ありがとう。助かった」
「どういたしまして。じゃ、これで用事は終わりだな」
「それと、ザイロ・フォルバーツという男のことを聞きたい」
ジャンタレイの口から、想像したとおりの名前が出てきた。
今度はもっと自然に、ジェイスは顔をしかめることができた。
「そいつの話はしたくねえ」
「彼は健闘しているだろうか。私の娘が迷惑をかけていないかな。再び《女神》の聖騎士となったと聞いたが。人間関係で苦労してはいないか。特に女性関係について確認しておきたい」
「話はしたくねえって言っただろ。あんたも全然人の話聞かねえな」
しかも、次から次へと脈絡もないようなことを尋ねてくる。
まともに取り合ってはいられない――ジェイスはすぐにでも立ち去りたくなった。
が、そのようなときに限って、釣り糸に反応があった。先端が引き込まれる感覚。それもかなり強い。ジェイスは舌打ちをして立ち上がった。
「手伝え。そうしたら少しは話してやる」
「釣りの最中だったか。それは失礼した」
「あんたの観察力はどうなってんだよ、自分の興味のあることだけか」
その視野の狭さは、よく似すぎている。
「鮭か」
ジャンタレイは川面を見て呟いた。
「この地域では、雨の神の使いと呼ばれているそうだな。おそらく雨季の直前に川の遡上を行う様子が――」
「いいから手伝え」
ジェイスは心の底から呆れた。
「あんた、ザイロによく似てるよ」
ひどい休暇になってしまった、とジェイスは思った。
これからジャンタレイに質問攻めにされる未来がはっきりと予感できたからだ。
しかも、ザイロ・フォルバーツの話で。
(めでたい年末年始だな、おい)
と、自嘲するしかない。
最近はどいつもこいつもザイロの話を自分に振ってくるような気さえする。このくらいなら祭礼の方に参加した方がまだマシだった、とジェイスは深く後悔した。
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