休暇行動管理簿:ジェイスの憂鬱な禁猟 1
その大草原は、連合王国の南東部に位置している。
遊牧という手段で暮らす民の大地だ。
かつてはパーチラクトと呼ばれていた地方で、複数の氏族が集まった、ある種の国家のようなものであった。
連合王国が成立してからは、領地の一部として取り込まれる形となっている。
便宜上、パーチラクト家という名で貴族の位階を与えられてもいた。
緩やかではあるが、この草原に暮らす民は、いまも一つのまとまった集団を形成している。
よって、必然的に彼らはその中心を必要とした。
それが『夏の家』と呼ばれる、パーチラクト大草原において唯一の、『動かない』集落だった。
ここに暮らす者たち――パーチラクトの指導者層とその助役たちは、例外として遊牧を行わない。
氏族たちの訴えを聞き、裁判を行い、あるいは天候の予測をして、月に一度の市場を開く。
そして年の暮れには、あらゆる氏族の代表を集めた会合を行う決まりになっていた。
この会合を、彼らは『焔座』と呼んでいる。
由来はわからない。
昼夜を問わず明かりを灯して開く会合であるからだ――と言う者もいるし、パーチラクトの民にとって神聖なドラゴンの息吹を意味している、と言う者もいる。
いずれにしても、ジェイス・パーチラクトはそんな歴史に興味はなかった。
ただ、年に一度の帰郷は煩わしい。
貴族としてパーチラクトの末席に居座る者の義務だというが、面倒なことこの上ない。首の聖印がなければ、帰郷命令など無視していたところだ。
――ということを正直にニーリィに言ったら、
「仕方ないから、私が代わりに出てあげようかな。ジェイスくんは王都で遊んでてもいいよ」
と言われた。
そうなれば、ジェイスも黙って出席せざるを得なかった。
そもそもよく考えなくても、ニーリィにとってはパーチラクトの『夏の家』の方が過ごしやすいに違いない。
第一王都の竜房は、ひどいものだ。
行政室の管轄で運営されているというが、ほとんど馬のような扱いを受けていると聞く。
そこに集められたドラゴンも、異様なほど知性が減退し、言葉を使うことができない者たちばかりだった。
中には飢えていれば見境なく、人間に襲い掛かる者さえいた。
本来のドラゴンならばまず考えられないことだった。
(おそらくは、ある種の毒だ)
と、ジェイスとニーリィは結論付けていた。
ドラゴンの思考能力を奪う毒。第一王都ではその類の毒を、食事に混ぜていると思われた。
対抗策も、すでに見つけていた。
その『毒』に対する解毒効果をもつ植物があった。パーチラクト大草原東部に分布する『竜の息吹』と呼ばれる香草が、それだった。
ドラゴン用の食料に混ぜ、ずいぶんと市場に出回らせたと思う――反乱の罪によって捕まるまでは。
(誰かがドラゴンを傷つけようとしている。いずれ、報いを与えてやる)
とは思ったが、いまはどうしようもない。
すべては戦いに勝利を収めてからだ。
――ともあれ、ジェイス・パーチラクトが『夏の家』を訪れたのは、そういう事情からだった。
そうなれば、やはり面倒な人間との付き合いが出てくる。
『夏の家』に常駐しているような連中はまだいい。
彼らは草原の外の貴族たちとそう変わらず、懲罰勇者であるジェイスを蔑みの目で見てくる。露骨に避けて、近寄ろうとはしない。
だが、それ以外の遊牧の民たちは違った。
「――おい、『貴公子』が来たぞ」
ジェイスとニーリィが『夏の家』の庭に降り立つと、さっそく気づかれた。
当然のことではある。ニーリィの飛翔は目立つ。他の竜とは明らかに違うからだ。
幸いにも、雪は小康状態だった。空には雲の隙間に太陽さえ見えている。頼りない冬の陽光の下、野外で煮炊きしていた人間どもが立ち上がった。
「ジェイス! どこを飛んでたんだ? 東の方じゃぜんぜん見かけなかった」
「やっぱり北か、西か? 激戦区だもんなァ」
「魔王現象を仕留めた話、聞かせてくださいよ。ジェイスさんの噂、聞いてますよ」
――このように。
遊牧の民たち、特に竜と生活している連中は、ジェイスの罪を罪と思っていない。
そういう反応も、ジェイスにとっては面倒なだけだ。好意も悪意も、人間のそれはただ鬱陶しく感じる。
「うるせえな」
とだけ言って、足早に通り過ぎる。
「魔王なら何匹も仕留めた。噂の通りだ、俺が誰よりも多く落とした。よそのやつらに負けるわけねえだろ」
その言葉に歓声があがった。拍手するやつもいる。
そういう明るい雰囲気が、ジェイスは苦手だった。ザイロやツァーヴやベネティムといった連中の騒がしさにはついていけないし、理解する気もない。
かといって、この草原の竜たちは、さすがにジェイスとニーリィのことを知りすぎている。
ジェイスとニーリィの行く道を開け、衛兵のように並んだ。
「女王とタバネ殿がお帰りだ!」
と、朱色の鱗を持った竜が高々と吠えた。
草原に棲む竜の中でも、『夏の家』に集う精鋭たちはさすがに言葉もよく知っている。そうであるよう、ニーリィが教育してきたからだ。
その言葉遣いは、いささか堅苦しすぎる。
「よくぞお戻りくださいました! 女王、タバネ殿!」
「ご無事で何よりです。寝所と湯浴みの準備ができております」
「お疲れではありませんか? 軽い食事ならば、すぐにご用意できます」
この調子で世話を焼かれては、さすがに気が詰まる。
ニーリィは鷹揚にうなずき返し、一言二言と礼の言葉を返しているが、ジェイスはどうにも居心地が悪くなる。
「タバネ殿、お荷物を預かりましょう」
「気にしなくていいよ」
ジェイスは突き出てきた濃緑の竜の鼻先で、軽く手を振った。
タバネ、と、竜たちはジェイスのことをそう呼ぶ。人間たちの代表だと思っているのだ。確かに、竜という種族から見ればそうなのかもしれない。
「そういうわけには参りません。今年は私が、タバネ殿のお世話係ですから」
「本当に必要ないからさ」
「畏れ多いことです」
「このくらい自分で持てるって」
「お荷物をお預かりする名誉を、どうか私に」
頑なな態度に、ジェイスがいつも折れる。というか、そうせざるを得ない。
「……わかったよ。よろしく頼む」
「ご帰還、お喜び申し上げます」
ため息をついて、濃緑の竜に背嚢を預ける。満足そうな彼女の鳴き声を聞きながら、足を速めた。
どうにもこの堅苦しい調子で歓迎されては、いたたまれない。
向かう先は、『夏の家』の中でもっとも大きな建物だった。
石造りの、砦のような建物。
連合王国の書類の上では、そこがパーチラクト家の居城ということになっている。
事実、この建物が築かれてからは、そのような目的で使っていた。
とにかくジェイスは一人になる時間を作りたかった。
本当ならニーリィと釣りにでも出かけたかったが、彼女には竜の女王としての役目がある。
少なくとも、この『夏の家』に参集した竜たちから挨拶を受ける必要があるだろう。
年の暮れ、この『夏の家』には竜たちが集う。
それをパーチラクトの人々は奇跡だとか、『夏の家』周辺は比較的気温が高いからだとか言っているが、まったくの見当はずれだ。
竜たちにはいつの世代にも女王と呼ばれる者が――いまはニーリィがいて、『夏の家』で各地に散った竜たちとの謁見を許す。
それは女王にとって情報収集の意味を持つ。
人間の中では、ジェイスくらいしか知らない秘密だ。
だからジェイスは、少なくとも三日ほどは一人で時間を潰すしかなかった。
人の集まるところは御免被る。
竜たちはニーリィの手前、態度がどうにも堅苦しすぎる。
夜になれば宴に出ざるを得ないため、昼間ぐらいは一人で過ごしたい。
結局、それが間違いだったのかもしれない。
そうして人のいない場所を探して、行き当たる先に何があるか――少しくらいは推測できていてもよかった。
『夏の家』の砦の最奥。
記憶の部屋、と呼ばれる一室には、パーチラクトの民も滅多に訪れない。過去の歴史を納めた蔵書庫などに、興味を示す者はいなかった。
――ごく一部の例外を除いて。
「ああ」
と、立ち並ぶ本棚の奥で、一人の女が振り返った。
眼鏡をかけた、ひどく眠そうな顔の女だった。
「ええと、どうも。お邪魔しています」
何冊もの本を積み重ねて、椅子に浅く腰かけている。
彼女は緩慢な動作で眼鏡の位置を直し、扉を開けたジェイスを凝視した。
「と、……おや? 司書の方でも、長の方でもない。ジェイス・パーチラクト氏ですか」
見なかったことにして、扉を閉め、その場を後にしようかとジェイスは思った。
そのくらい面倒な相手だった。
彼女の名を、シグリア・パーチラクトという。
パーチラクト家の中でも、いまは長と同じくらいの発言権と立場を持つ人物。
――第七聖騎士団の団長でもある。
顔見知りではあった。というより、有名すぎた。パーチラクトで彼女を知らない人間はいない。ジェイスを知らない人間がいないのと同様に。
「これは意外ですねえ。ジェイス氏も、こちらの書庫にご用事があるとは」
「別に興味はない」
ジェイスは嘘をつかなかった。
面倒なだけだからだ。この点、ジェイスにはベネティムのような人間が理解できない。面倒とわかっている方向へ、なぜあいつは歩きたがるのか。
「人のいない場所を探しに来ただけだ。――で、人がいた。あんただ。だから俺はもう行く」
「ああ……そういう? 残念です。せっかく歴史の話ができるかと思ったのですが」
シグリア・パーチラクトは、恐ろしく自分の調子を崩さない人間だった。
ジェイスが露骨に喋りたくない気配を出しているにも関わらず、やや間延びした声で、言葉を続けている。
あるいは、他人をその調子に引き込む能力でもあるのかもしれない。
「そう、ジェイス氏。あなたは懲罰勇者でしたよね?」
シグリアは羽ペンを取り出し、何かを自前の紙面に書きつけていた。
その傍らにある本の背表紙が目に入る。『神々の系譜』。それはジェイスにあくびを催すような内容を想像させた。
「その戦いの歴史に興味はありませんか? ええと……第一次魔王討伐から第三次魔王討伐まで、人類に何があったのか、とか……なぜ歴史が大いに失われてしまったのか、とか」
「興味ねえよ」
ジェイスは肩をすくめた。
「誰かがヘマしたってだけの話だ。それか敵の方が強かったか。どっちかだ」
「ああ、それは正しい。そう……まさしく人類は失敗していますよねえ。魔王現象を滅ぼすことに。その機会は確かにあったんですよ」
シグリアは喋りながら羽ペンを動かす。
器用な女だ、とは思う。
「重要視するべき点は、第三次魔王討伐にある……と私は考えています。人類は魔王現象と和解したはずなんですよね。『聖女』様の活躍で。なぜその結果として文明が衰退したか。我々は魔王現象の本当の武器を知らなければ、また負けますよ。興味あります?」
「……あんたは、それがなんだって言いたいんだ?」
「愛と絆」
シグリアは机から身を乗り出し、どこか夢見るような顔で笑った。
「私はそう思います。魔王現象はその武器を使って、人類から戦う意志を奪ったのではないかと」
「そうかよ」
急にジェイスは興味が失せていくのを感じた。
その単語の選び方には、まるで現実感がなかった。どこまで本気なのだろうか。そもそも魔王の武器だと。そんなことを自分に言ったところでどうする?
学者連中の戯言には付き合い切れないところがある。
「俺はもう行く。他に人のいない場所を知らないか?」
「いまはどこも人だらけですよ。あちこちで宴会も開かれるようですし……」
「面倒だな」
酔っぱらった連中に話しかけられたくはない。考えるだけで憂鬱になる。
「……じゃあ、『夏の家』の外に出かけるつもりはあります?」
シグリアは唐突にそんな提案をした。ジェイスは顔をしかめるしかない。
「無理だな。面倒な話だが、俺は懲罰勇者だ――長の許可なく歩き回ることはできねえよ」
ここに立ち寄らざるを得なかったのも、結局はそういうことだ。命令には逆らえない。ジェイスにはこれ以上、死にたくない理由があった。
「私には長と同じ権限があります。これでも、聖騎士団長ですから」
シグリアはすでにジェイスを見ていない。本に目を落としていた。
「許可なら差し上げてもいいですよ。私の代わりに、お遣いに行ってくれるなら……ですけど」
「お遣いって」
ジェイスは面食らった。
「なんだそりゃ」
このシグリアという女は、言葉の選び方が子供じみている。あるいは幼児の育成にあたる教師だ。
「とある貴族の方を、賓客としてお迎えすることになっているんですよねえ。そちらの送迎を、どなたかにお願いしたかったんです。私は忙しいので」
「なんだ、客か」
年末年始には、『夏の家』に領の外の客を呼ぶ。
それはパーチラクトの慣習だった。
「今年は誰を呼んだ?」
「珍しいですよ。たぶん、この『夏の家』を訪れるのは初めてじゃないでしょうか」
シグリアは眼鏡の位置をまた直し、新たな本を手に取った。
「ジャンタレイ・マスティボルト。――いわゆる南方夜鬼のご当主ですね」
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