休暇行動管理簿:ドッタの剣 3
息を潜めて、夜の路地に滑り出す。
街路の聖印灯が、降りしきる雪を青白く照らしていた。
夕暮れ前から降り始めた雪は、路面をすっかり覆い隠している。まだ降るだろう。
(寒いな。――さっさと終わらせよう)
軍営を抜け出すのは、ドッタにとっては簡単なことだった。
いくつかある物資運搬口の鍵を複製してある。あるいは、長い布切れと鉤縄があればいい。それを使って、壁の忍び返しを飛び越えることもできる。
「うん。大丈夫そうだね」
ライノーも、その大柄な体に見合わぬ俊敏さでドッタに続いていた。
赤茶けた首巻で、その口元を覆っていた。ついでに帽子もかぶっている。それにゴーグル。正体を隠すため、ドッタも似たような風体だった。
「トリシール嬢は、ちゃんと眠っているかな?」
「かなり飲んでたから、間違いない……たぶん」
ドッタはトリシールを酔わせるために費やした物資のことを思う。
(あれは高くついたな……楽しみにしてたんだけど)
北方産のウィスキー。イアード家の『紫耀』と呼ばれる銘柄の中でも、20年を熟成させた原酒を用いた逸品だった。
「ではよかった。彼女は特殊な目を持っているようだからね」
雪に足跡を残して歩きながら、ライノーは大きくうなずいた。
「遠くの標的が見えるんだって? そういう『聖痕』だね、あれは」
「ぼくも本人から聞いたよ。怖いよね……」
「うん。怖いよね……」
ライノーの口調はいつも一定で、何を考えているかわかりづらいところがある。
だが、いまの一言にはなんとなく本気がこめられているような気がした。
「では、段取りを確認しておこう」
「わかってるよ。ユベイト・ルドミッシェン……さんの屋敷に忍び込んで、大競技祭で使い物にならなくなってもらうんでしょ」
ドッタはなんとなく居心地が悪くなり、深い緑色の首巻を鼻先まで引き上げた。
「ただ、殺しは厳禁」
「それがいいかもしれないね。きっと大きな事件になると思うし、別の代表剣士が選ばれるだけだから」
ユベイト・ルドミッシェンは、聖騎士団とは別の陸軍兵団に所属している。
アバネッカ方面軍211隊という、北方への守りの部隊らしい。たとえ何らかの理由で出場が不可能となっても、代わりの兵士はいくらでもいると考えられた。
「単純に骨を折ったり、大怪我を負わせるのもよくないね。同志ドッタのような目的を持っている場合、意外と闇討ちは繊細な仕事になる。その点、僕には名案がいまひとつ浮かばなかったんだけど……」
「うん。だから、毒を使うことにした」
ドッタは懐から、小さな瓶を取り出してみせた。それも複数。
「一番いいのは、こっちの強力な下剤かな。食べ物とかに仕込んでおこうと思って」
「ああ――なるほど、非致死性の毒! 素晴らしいね、同志ドッタ。きみの知恵には時々敬服せざるを得ないことがある」
「それとこっちは風邪ひいたときみたいに怠くなるやつ……」
「そんなものまで」
「で、これはちょっと時間差で吐き気がものすごくなるやつ……」
「お見事」
ライノーは小さく拍手をした。大げさな反応だとドッタは思った。
「……まあ、もちろん、あっちに隙があればね……単純に蹴ったり殴ったりしてもいいんだけど」
「ああ。適切な打撲傷を与えるだけでも、さらに戦力は低くなるだろうね」
「や、でも、それはあんまり自信ないなあ……達人は寝てても殺気に気づくとかいうじゃん……」
「そんなことはないよ。同志ドッタ、きみの隠密技術は常軌を逸している。うまくいく確率も高いと思う」
「でもぼく、前に寝てるザイロを蹴とばそうとしたら、足を掴まれてその後ひどい目に遭ったんだけど。なんなのあれ?」
「いや。それは同志ザイロがちょっとおかしいんだ。彼の場合は――」
ライノーは言いかけて、急に口をつぐんだ。
ドッタも気づいていた。違和感。この静かな真夜中の第一王都の、高級住宅街に――騒音。誰かの怒鳴る声。
金属音。
雪を踏み荒らす音――だろうか。ドッタは耳を澄ませた。
「戦闘しているね」
ライノーは断定的に言った。
「向こうだ」
ドッタはつい、ライノーの指さす先を覗いてしまった。
曲がり角の向こう。長く続く白い石壁の、街路の先――誰かがいる。それも複数。
ドッタには、はっきりと見えた。
闇の奥に人をみるときは、人そのものを見るよりも、少し焦点をずらして輪郭を見た方がいい。
数は七。
そのうち一人を、六人が囲んでいる構図――その一人の足元には、倒れている人間の体が三つ、四つ。
死んでいるな、と、ドッタは直感した。そして動転した。
「な、なっ、なに!? あれ!?」
「ああ。……これは意外だね。先客がいたのかな? どうだろう?」
悩むように、ライノーは首を捻った。どこか呑気な仕草だった。
「あの囲まれて襲われているのが、僕らの標的なんだよね」
「えっ? え、どーゆーこと!? なんで!?」
「ユベイト・ルドミッシェンだよ。いままさに闇討ちに遭っているようだ」
「それって」
ドッタは自分の声が弾むのを感じた。これはツキが向いてきたのかもしれない。
そのユベイト・ルドミッシェンらしき男は、壁を背にすることで、片手の剣一本を振るって敵の攻撃を実によく捌いている。が、すでに手傷を負わされていた。
「ぼくらはこれを見守っていればいいってこと!? やった!」
「いや、そう好都合にはいかないみたいだね。どうやら相手は……」
ライノーの声が、妙に乾燥したものに聞こえた。
「ユベイト氏を殺そうとしているね」
「それはまずいよ!」
ドッタは即答した。
「こっ、殺されたら、次の誰かが代表になるじゃん! そいつに対処してる暇ないよ!」
「その可能性は高いね」
「たっ、た、たっ」
ドッタはそこで唾を飲み込んだ。
「助けなきゃ!」
――言いにくかったが、言い切るしかない。そうでなければ、どう見ても多勢に無勢――ユベイト・ルドミッシェンが殺されて終わりという結末しか思いつかない。
そして、彼が死んでしまえば、次の代表選手を探って闇討ちなどしている暇はない。
なぜこんな時間に、ユベイト・ルドミッシェンが屋敷の外に出ているのか。
軍の仕事というのはそれほど忙しいのか。それとも別の理由か。
そんな人物がなぜ襲われているのか。
――そうしたことに、分析的な一応の理由をつけられるドッタではない。
ただ、すぐに対処しなければならないことだけはわかった。
「うん! 助けるというのは実にいいね。さすが同志ドッタ」
ライノーが満面の笑みでうなずいた。
「僕もぜひそうしようと思っていたところだ」
なんでそんな呑気なんだ、とドッタは思った。なんだか理不尽な気がしてきた。自分ひとりだけ、ここ数日ずっと神経をすり減らしている。
ライノーにも――いや、こんな不可解で想定外な事態を引き起こしたやつらにも、自分の嫌な気分の半分だけでも味わわせてやりたい。
だからドッタは怒鳴るように言った。
「いいから、急いで! ライノーは正面から突っこんでいいから! ぼくは――」
ライノーに無茶な役割を押し付けて、ドッタは壁に足をかけた。
「上から行く」
そして一気に駆け上がる。
靴底と手袋の指先に、小さな鉤爪をつけている。それを使うことで、ドッタはたいていの壁面を駆けあがることができた。
足音と気配を殺し、壁の上を走ることも難しくはない。
ライノーが雪煙を蹴立てて突進したのだから、なおさらだ。
「失礼」
と、ライノーは一言律儀に断って、襲撃者どもの只中に突っ込んだ。
右手に短い棒――鉄の棒だ。そいつで振り返りかけた相手の側頭部を、思い切り殴りつけている。
がんっ、という強烈な音。相手が倒れこむ。
「なんだ?」
と、襲撃者の一人が声をあげた。
無理やりに冷静を装うとしていたのが、その声でわかった。見た目はドッタたちと大差ない。黒い覆面。その頭上から、ドッタは素早く飛び降りた。
死角をとって、相手に反応はさせない。
首に腕を巻き付けたところで、勝負は決まった。
(嫌だな)
ドッタは手の平に握ったナイフで、その覆面男の首を掻き切った。
血の飛沫が盛大に飛び散り、雪を濡らす。念のために胸も刺す――こちらは骨に阻まれて、うまくは刺せなかった。
(この感触、どうも苦手だ……)
ドッタが殺人を嫌う理由は二つある。
一つは気味の悪い手応え。実は肉を捌くのも苦手だ。
もう一つは、人を殺すと面倒なことが多いからだ。大抵誰かに怒られる。それに、相手からの反撃で殺される可能性もある。死体の処理も憂鬱だ。
が、要するにその制約さえなければ、ドッタの殺しは軽快だった。
「あなたたちは――」
いきなり二人の人員を失った襲撃者たち以上に、ユベイト・ルドミッシェンも混乱していた。
とはいえ、さすがに熟達した剣士というところか。
片手剣をしなやかに閃かせ、さらにもう一人の襲撃者の胸元を深々と貫いている。
「何者ですか? 査察官ではありませんね。軍の護衛……? あ、いや……」
間近で見たユベイトは、ひどく消耗しているようだった。
薄い金色の髪が、額に汗で張り付いている。その頭部から出血――殴られたのかもしれない。あとは左腕、左足に創傷。
「いずれにせよ、助かりました。すみません」
喘ぐように言った、その体が傾いて、壁に背中をつけた。
「油断しました。決戦派……ここまでのことを、してくるとは……」
だが、ドッタはそのユベイトのうめき声を聞いてはいられなかった。
「ちっ」
という短い舌打ちが聞こえたからだ。
「行政室の密偵め!」
妙な名前で呼ばれたし、なんならドッタは蔑まれた気さえする。
残った三人の襲撃者が一斉に動いた。
うち一人が、ドッタを狙っているのがわかった。低く構えた両刃の片手剣――その刀身に、聖印が刻まれている。
ドッタはその刀身に炎が宿るのを見た。
火の粉が散り、雪がまばゆく照らし出される。
(うわ)
その剣が、ドッタを狙って突き込まれてくる。聖印兵器。切っ先で揺らぎ、うねる炎が、そういう種類の生き物のようだった。
(どうしよ)
ドッタは助けを求めた――ユベイトにもライノーにも、そんな暇がないのはわかりきっていた。
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