刑罰:トゥジン山奪取進軍援護 3
夕暮れが近づいていた。
俺たちはみんな最低限ぎりぎりの休息をとり、陽光を蓄えた。
絶望的にクソ不味い戦闘糧食だったが、食事もした。
油脂と干し肉と乾燥させた果物をぜんぶ混ぜて磨り潰した、「肉麩」と呼ばれる最悪中の最悪の糧食だ。
いずれこの糧食は根本的に改良してやる、と俺は密かに誓っている。
それから、俺たちは動き始めた。
いまはとにかく、移動すること。
一刻も早く合流地点にたどり着くことだ。
再び冷たい風が吹き始めている。真夜中にはまた吹雪くかもしれない。俺は白い息を吐きだし、北にそびえるトゥジン山を睨む。
ノルガユと、その下につけられた二百人の工兵は、俺たちよりも先に進発していた。
やつらにはやるべきことがあった。
北西部方面に仕掛けを打っておきたかった。
具体的には、広く疎らに仕掛ける類の罠だ。やつらが本隊を追撃しようとするときに、少しでもその足を阻害できればいい――というのは建前で、ノルガユなら、この短時間でもきっと俺が考える以上の仕事をするだろう。
出かける直前に、俺はノルガユと少し話をした。
「メルネアティスとライクェルは、血を分けた余の妹であり、弟である」
と、陛下からは釘を刺された。
「ザイロ総帥、くれぐれも任せたぞ。二人を守れ。よいな」
「わかってる」
凄まじい目つきで睨まれたが、そんなことは陛下に言われるまでもない。
なぜなら、あの二人は王族だ。
その身に何かあれば、それは連合王国の基盤を揺るがす大事件となるだろう。
そうである以上、ホードたち第九聖騎士団は命に代える勢いで守るはずだった。すでにこの遠征という賭けに乗ってしまった貴族たちも、利益を考えれば絶対に守りたいだろう。
「そっちこそ、仕事はきっちり頼むぜ」
俺は一応言ってはみたが、こんな念押しは必要ないかもしれない。
相手がノルガユだからだ――常に士気は異常なほど高い。
「当然だ。余の第二王都を占領したこと、後悔させてやらねばならぬ」
「部下もいるんだから喧嘩するなよ」
正直なところ、それが一番心配だ。
ノルガユは最初のあいさつで、工兵たちに向かっていきなり自分を連合王国の国王だと名乗りやがった。
馬鹿正直に「陛下とはどういう意味でしょうか?」と尋ねた、おそらくまだ若い工兵の一人は、直後にひどい怒声を浴びせられた。
ベネティムがすぐに助け舟を出さなければ、さらなる混乱を招くことになったかもしれない。
「あれは喧嘩などではない! 正しい譴責である。余に対して不敬な口を利く者が多すぎる」
「それは……たぶん、緊張してんだよ」
こんなときに陛下の機嫌を損ねたくなかったので、俺は適当なことを言った。これもベネティムなら、もう少しマシなことを言っただろうか?
「国王陛下に対する口の利き方なんて、末端の兵士がわかるわけないだろ」
「ふむ。……で、あろうな。教育が必要だ」
ノルガユ陛下は自分の髭を撫でて、険しい目つきで呟いた。
「学院を神殿にだけ独占させているいまの状況がよくないのだ。国庫を開き、王立の学院を作らねばならん。よいか、ザイロ総帥。国家の富というものは、まずその基盤から……」
話が長くなりそうなので、俺はそっと心を閉ざした。
ノルガユ陛下の国家構想なんて、ものすごく不毛に思えるし、だいいち俺にはまったくよくわからない。
こうして、ひととおり陛下には遠大な構想を語っていただいたのち、北へと進発してもらった。
願うのはただ一つ。
何かの間違いで、魔王現象や傭兵の斥候に捕捉されないように、ということだ。
もっともその場合は、魔王現象がなんらかの超常的な理由で俺たちの進路の先回りに近い機動をできていることになり、そうなったらもう全滅するしかないだろう。
こうしてノルガユたちが先行し、ドッタもわずかな手勢を率いて進発すると、行軍が始まった。
斥候を出しながら、最大限の速度で丘陵地帯を進む。
トゥジン山までは丸一日と少しというところだ――どこまでそれを縮められるか。俺たちが動いたことを察知すれば、魔王現象の側も動き出すだろう。
もはやヨーフ市との連絡を遮っていることが無駄であることを悟るはずだ。
「ザイロ。トゥジン山を狙う動きで魔王現象を誘い出す、この戦い方は貴様の発案だそうだな」
と、パトーシェは俺の隣に馬をつけてきた。
「――うまくいく自信はあるか?」
少しの沈黙の後に切り出した、彼女のこの言い方は、ただの雑談のつもりだろう。
別に作戦の内容を批判したいわけじゃない。緊張をほぐしたいだけだ。
パトーシェは聖騎士団の長として十分な軍事知識と指揮力を持っていると思うが、その若さを考えると、極端に実戦経験が少ないのだろう。
パトーシェ・キヴィアという人間のことは、少しずつわかってきた。
おそらくは任務中だから――という理由で、こういう堅い話題以外に、どう雑談を振ればいいのかわからないのだ。
懲罰勇者部隊に、そういう兵隊らしい兵隊はいない。
これがツァーヴなら遠慮なくクソどうでもいい雑談や凄惨な過去話をぶち込んでくるだろうし、ベネティムなら何の脈絡もなくホラ話をおっぱじめる。
だから俺は気楽に答えることにした。
「ツキがあればいける」
「運頼みか?」
「運が良ければ勝てるくらいには、勝算はあると思ってる」
「呆れた作戦だな。それで私たちをみんな死地に追いやろうというのか?」
言葉はきついが、本気ではない。それ以外に言い方を知らないだけだという気がする。
事実、パトーシェは少し笑っているようにも見えた。
「だが、それも悪くはない。この賭けは、勝てばすべてを取り戻せる」
「意外だな。パトーシェ、賭博好きなのか?」
「あのような頽廃的な娯楽はやらん」
「弱いんだな。賭けに弱い奴がいるとなると、急に作戦が不安になってきたぜ」
「……弱くはない。はずだ。ただ、やらないものはやらない。頽廃的だからだ!」
それだけ言い残し、パトーシェは馬を速めた。騎兵隊の群れに帰っていく。
あのくらいがちょうどいい。緊張はほぐれただろう。
こういう風に、兵隊らしい兵隊と言葉をかわしたことが、どういうわけかひどく懐かしかった。
――だが、この場には俺の発言を聞いているやつがもう一人いた。
「幸運が頼りとは、問題のある発言だな。ザイロ・フォルバーツ」
ホード・クリヴィオス。いつの間にか背後にいた――ペルメリィをその背に従え、不景気な顔で手綱を操っていた。
どうやら俺の『運頼み』という発言を真に受けたらしい。
「この作戦は私も同意し、承諾したものだ。その私の判断を貶めるような発言はやめてもらおう」
「そりゃ悪かったな」
面倒なので、俺は片手を振って黙らせようとした。
「無駄口叩いて済まなかった」
「前々から思っていたが、あまりにも態度が悪いな。ザイロ・フォルバーツ。かつて聖騎士団の長であった頃から、貴様のような者がその立場にあるとは、何かの間違いだと思っていた」
どうやら俺はひどく嫌われているらしい。
かつて団長をやっていた頃は、ホードという男に対してはさほど強い印象がなかった――ほとんど喋らなかったからだ。
が、それは単に俺が嫌われていたからか。いまさら気づいた。
ホードは呪わしいものを見るように、俺を睨んだ。
「私の考えは正しかったな。貴様が聖騎士に選ばれたのは、やはり何かの間違いだったということだ」
俺は何か返事をしようとした。
あまり興味のない話題だったからだ。俺が聖騎士団長だったことは、確かに間違いではあったかもしれない。
《女神》を殺した――そんな聖騎士は存在していいはずがない。
その真相については、他人に語って信じてもらえるとは思っていない。セネルヴァのことに関しての罵倒以外なら、黙って受け入れることにも慣れてきた。
しかし、やっぱりそうじゃないやつもまた、この場にはいた。
変な連中が揃ってしまったという気がする。
「そこまでです、ホード・クリヴィオス」
俺の背中から顔を出し、咎めたのは、もちろんテオリッタだ。
こいつは出発してからずっと、俺の上着に入れてある
「我が騎士に対し、無礼な物言いは許しません」
「……それは」
ホードは、一瞬だけ戸惑ったようにも見えた。
懲罰勇者に所属する《女神》という、この特殊すぎる存在に対して、どのように接していいのかわからないに違いない。
だが、すぐに薄く目を閉じ、結局は己の信条に従ったようだ。この手のクソ真面目な聖騎士にとっては、それはすなわち神殿が掲げる《女神》への忠誠。
「失礼を。《女神》テオリッタ」
「わかっていただければ結構です。ザイロが選ばれたことは、決して間違いなどではありません」
ふん、とテオリッタは鼻を鳴らした。
それからよせばいいのに、ホードの後ろで怯えたような目をしたペルメリィに笑いかけた。まるで妹を諭すような笑顔だった、気がする。
「《女神》ペルメリィ。騎士の言葉遣いは指導した方がよいですよ。確かになかなか手はかかりますが、人を導くのが私たちの役目ですから」
「……ええ……それは、はい。わかっています。が……」
ペルメリィは、少しだけうつむいた。そうすると長い黒髪で目が隠れ、よく表情が読めなくもなる。
「……私の騎士も、決して悪意があっての発言ではないのです。少し……潔癖すぎるだけ、というか……」
「余計なことは言うな、ペルメリィ」
ホードが素早く彼女の言葉を封じた。
「私は規律を無視して勝手なことをする輩が嫌いだ。いい加減な嘘を並べ立て、物資を盗み、傍若無人な振る舞いをする。いずれ証拠を掴んだ暁には、貴様らを即座に罰するつもりだ」
「そうか」
できるといいな、と俺は思った。
連合行政室が誇る査察官たちでさえも、ぎりぎりまで捕えきれなかった連中を、軍隊の指揮という本業をこなしながらどうやって検挙できるだろう?
「あんた、真面目なんだな。敗走しながら、これだけの兵隊をまとめてた理由がわかる」
信賞必罰、という軍の原則は当然のように言われているが、それを本当に徹底できる将軍は貴重だ。
そういう――ある種の清潔さで軍隊を統率しようと思うなら、何より自らが規律の塊のようにならねばならない。それとも汚れ役を引き受ける、優秀な副官がいるか。
昔の、聖騎士だった頃の俺の部隊がそうだった。
副官には部下を怒鳴る仕事を押し付けていたと思う。だから、ホードのようなやつに対しては、腹は立つが嫌いではない。
「できるだけ兵隊を生き残らせてやってくれよ」
「それは指揮官として当然のことであり、そのような世辞で好悪の感情は変わらず、また感情で貴様らの扱いを変えるつもりはない」
ホードは表情を変えずに言った。本気で言っているのがわかる。
それはつまり、ホードも俺たちのことを嫌いだが、仕事をする限りはお互い足の引っ張り合いはナシということだ。わかりやすい。
「……あの……いかがですか? 私の契約者も、す、優れた聖騎士でしょう」
ペルメリィが引きつるようにぎこちなく笑った。
これには、テオリッタが対抗意識を燃やしたようだ。
「まあ、それなりのものでしょうね。ですが、私のザイロも優れていますよ。優れに優れていると言っても過言ではありません! これからそれをご説明しましょう、まず第一に――」
やめろ、と俺は言おうとしたが、結局止める必要はなかった。
角笛が鳴り響き、テオリッタの声をかき消したからだ。
長く尾を引くように、二度。西方からだ――そちらに動かしていた斥候が、合図を送っていた。敵を発見したということだ。
「来たな」
ホードは、腰のベルトに留めた小さな盾のようなものに触れていた。
それは通信用の聖印を刻んだものだ。
『風響印』とか、『谺』などと呼んでいる。
「総員、着甲しろ! 戦闘準備!」
ホードが叫び、今度は面のようなものを顔につけた。
いかにも不気味な、顔をすっかり隠してしまう鋼色の面だった。
これが第九聖騎士団の有名な破毒面か。聞いたことはあったが、実際に見るのは始めてだ。毒を戦術的に使用する《女神》ペルメリィと共闘するため、戦闘の際に彼らはこうして身を守るのだという。
「やれるな、ペルメリィ」
「……ええ。その前に。私ならば、できると……言っていただけますか、ホード?」
「お前ならばできる」
「では、……できます」
ペルメリィがうつむいたまま、少し口元を緩めた。
ホードのペルメリィに対する態度が無機質な理由がわかった。こいつは真面目すぎるのだ。要求された通りに、要求されたことをしようとする。
それが正しい扱いだと信じている。そんな気がする。
「ザイロ。……我々は全力で北進突破する。懲罰勇者部隊、ここまで兵站を融通し、戦力を増強してやったのだ。西からの敵は必ず止めろ」
「必ず、ってのは困るな。戦場に絶対はない」
俺はあえてホードが嫌うような言い方をした。
「が、あんたに文句言われないように、やってみる」
こういう完璧主義な相手に対して『文句を言われないようにする』というのは至難の業だ。
ホードを黙らせるには、完勝するしかないだろう。
――そして、それができなければ、壊滅もあり得た。
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