王国裁判記録 ロウツィル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオ
現在の王室に、正式に名を連ねている王子は三名。
第一王子、レナーヴォル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオ――存命。
第二王子、リーズファル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオ――病死。
第三王子、ライクェル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオ――第二王都襲撃の際に生死不明。
だが、王子として公式に記録されていない長子が存在する。
ロウツィル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオ。
王位継承者であった時期もあるが、母親は旧メト王国の系譜に連なる者であり、連合王国の中核であるゼフ=ゼイアル両王家の血統からはやや外れる。
そのことに由来して、政治基盤は脆弱であり、現在の第一王子レナーヴォルの誕生の直後に王位継承権を放棄。
さらに現在は行方不明となっている。
その失踪は、とあるテロリストによる王宮爆破事件の直前であった。
これはゼフ=ゼイアル王家によって排除されたとの見方が有力である。
(『リビオ記・王室から消えた系譜、ゼフ=ゼイアル両王家の陰謀』より抜粋)
◆
死の気配がする。
それは匂いに似ているかもしれない。
ロウツィル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオは、一歩ずつ前に進むたびにそれが強まるのを感じていた。
肩を貸している友――ノルガユ・センリッジの、その大きな体から、徐々に力が抜けている。
いまはほとんど、ロウツィルが引きずっているような恰好だった。
それでも、ロウツィルには諦めることができない。
湿った暗闇の中を一歩ずつ進む。
できるだけ静かに。それでも素早く。この地下通路の先は、王宮まで繋がっているはずだった。
ロウツィルはそれを知っていた。王族しか知らない、秘密の通路だ。
「――もう、十分だ」
と、ノルガユ・センリッジはそう言った。
ほとんどため息のような声だった。ささやきと呼ぶにはあまりにも弱い。
「置いていってくれ。ぼくはここで死にたい。お前の……」
かすかに、冗談のような響きが混じる。こんなときでも。そういう男だ。
「王太子殿下の足手まといになりたくない。お前の方が、……逃げなくては。王宮まで、どうにか……たどり着けば……」
「王太子じゃない」
ロウツィルは否定して、また足を進める。
肩に流れてくる血が暖かい。ノルガユの血だ。大きく負傷しているのはわかっている。早く手当てをしなければ。
「何度も言わせるなよ。わざと俺を怒らせたいのか、本当に置いて行くぞ」
「そうしてくれ」
「嫌だね」
下の王子が生まれたときに、ロウツィルは迷いなく王位継承権を捨てた。
神殿に入り、学者の道に進むことでのみ、それは可能だった。
そちらの方が混乱を避けられると思ったからだ。メト系王家の血を引く自分は、いまの連合王国にとって歓迎されない王太子であることもわかっていた。
そこでノルガユ・センリッジと出会えたことは、望外の幸運だったと言っていい。
ロウツィルの人生で唯一の幸運かもしれない。
この数年間は本当に楽しかった――本当だ。共に学び、共に議論し、共に未来について語った。くだらない話もした。あるべき王の姿と、その政治形態について。
ノルガユ・センリッジは天才だった。
ロウツィルが知る限り、宮廷の誰よりも優れていると思えた。特に、聖印調律の才能には凄まじいものがあった。
それもおそらく、歴史に名を残す類の天才。
恐ろしく先進的で、画期的な発想を行うことができた。生きてさえいれば、聖印技術を三十年先ほどまでは飛躍して進歩させることだろう。
(――死なせるわけにはいかない)
ロウツィルは肩に重みを感じる。
徐々に力を失っていく友人の体の重さだけではない。歴史の重みだ、と思う。この男が生きていることが、重大で深刻な歴史の転換点になる。
(そのためなら、このくらいは、安い苦労じゃないか……あと少しだ)
ロウツィルはそう思い込むことにした。それをさせるだけの天稟が、ノルガユ・センリッジにはあった。
「……頼むよ。置いて行ってくれ、ロウツィル」
「嫌だ」
再び聞こえたノルガユの呟きを、ロウツィルは否定した。
「俺はお前が思っているほどいいやつじゃない」
「知っている……」
「むしろすごく悪いやつだ」
「……そうだな……」
「王様なんて責任を背負うのも、絶対に御免だった。意気地なしの臆病者で……卑怯で……だからこんなことになってる」
「ああ」
「俺は悪いやつだ」
ロウツィルは喋り続けた。
喋っている間は、ノルガユは死なないだろうという気がしていた。実際、ノルガユは呻くような反応を返してきていた。
「この騒動にお前を巻き込んだ」
命を狙われた。
神殿の学院にまで、「敵」がやってくるとは思わなかった。共生派たちだ。王位継承権を失った自分まで、狙ってくるとは――恐れ入る。正確な情報網。誰か、裏切り者がいるのかもしれない。
共にいたノルガユは、ロウツィルを庇おうとして、これほどの重傷を負った。
どうにか暗殺者を迎え撃ち、逃走することはできた。敵意に満ちた神殿を抜け出し、この地下通路まで。
「返事をしろよ、ノルガユ」
「ああ」
と、呻く声が聞こえたような気がする。その声があまりにも頼りなかったので、ロウツィルは少しだけ友人の体を揺すった。
「返事をしろ。王太子の命令だぜ」
「ああ」
声がした、はずだ――本当に? 自分の喉が鳴った音ではないのか。ロウツィルは祈るようにもう一度声をかける。
「なあ。怒ってるのか? そりゃそうだろうな。でも返事ぐらいはしろよ。認めるからさ……これは俺のせいだ。やつらが俺を狙うのは、正当な理由があった。なにしろ俺は」
言いかけて、ロウツィルは足を止めた。
行く先に光が見えた。照明。聖印の光。
だが、それは自分たちの安全を示す、希望の光などではない。そこにいくつかの人影があったからだ。
五人か。
突破するのは、どう考えても無理だ。自分に戦いの心得などない。それでも、ノルガユを置いては行けない。
なんとしてでも、助けなければ。生き残るべきは、自分ではない。
この魔王現象と、共生派との戦いに勝利するには――
「申し訳ありません、ロウツィル様」
よく通る、穏やかな声が聞こえた。出口を塞ぐ彼らの中心に、細身の人影が立っている。
「ここで諦めてください。無理ですよ。我々はどこにでもいるんです。我々こそが『普通』ですから」
その男は、申し訳なさそうに笑った。気弱で、ありふれた笑みだった。
「王家と、忠臣のために。まずはそのご友人を下ろしてください」
「断る」
「無意味ですよ。死体を運ぶのは大変でしょう」
そう言った、男の顔にはまるで特徴らしい特徴がなかった。ただ物静かな雰囲気をまとった、学者のような男だった。
「その者は、もう死んでいます」
◆
牢に閉じ込められたのは、間違いなく拷問のためだ。
自分からは聞き出すべきことがいくらでもある。
何日が過ぎただろう。
衣服をすべて脱がされたのは、これから起きることへの恐怖をあおるためだ。
そういう手口については、理性ではわかっていた。それでも本能はどうしようもない。怖くてたまらない。
知っていることをすべて話して、苦痛は止まるだろうか?
無理だろう。極限のぎりぎりまで、嘘をつく気力もなくなるまで、あの連中は自分を苦しめるだろうと思えた。
(……そうなる前に、だ)
ロウツィルは、地下の暗がりを睨んで考える。
(やるべきことをやる)
どうするべきか。ここから何をするべきか。それほど多くのことを検討しなければならないわけではない。すでに、答えは出ていた。
覚悟を決める。
むしろそのことに、意識を集中させる必要があった。
あとは、その時を待つだけで――すぐにその時はやってきた。
長い時間が過ぎたような気もするが、そうでもないのかもしれない。
「……遅くなりました、ロウツィル殿下」
檻の外で、声が聞こえた。
「あまり時間がない。手短にいきましょう」
押し殺したような声。明かりは牢の外にある、小さな聖印の光しかない――その男の顔もまともに見えない。
それでもロウツィルは、彼が誰だか知っていた。
「カフゼン……」
はっきりと声を出したつもりだが、囁くような声になってしまった。
あのときの、ノルガユ・センリッジを思い出す。
「ここから、私を脱出させられるか?」
「不可能です」
カフゼンは断言した。
「こうやって侵入できたことすら、非常に危険を伴っていました。外で陽動を行っていますが、長くはもたないでしょう。よって……」
彼は、服の内側からナイフを引き抜く。
「一度、死んでもらうしかありません」
「その後、俺を生き返すか」
「ええ。第一の《女神》の能力ならば、高い確率で記憶も人格も再生できる」
そのことなら、ロウツィルも知っていた。
というより、彼だからこそ知っていた。
勇者刑。それにまつわる歴史の真実――本来の果たすべき役割。懲罰勇者部隊。
「我々人類には、まだ御身が必要です。ロウツィル殿下。勇者となっても、生き延びてもらいたく思います」
「いや……残念だが」
ロウツィルは笑った。そのつもりだった。
「俺はそんなにいいやつじゃない。むしろ、悪いやつだ」
「……ええ。そうでなければ、このような非人道的な方法には手を染めないでしょう。ですから、そんな殿下が必要なのです」
「違う」
ロウツィルははっきりと言った。
「俺は臆病で、卑怯で、弱くて、王族であるという以外に才能などなかった」
「ですが、残酷にはなれます」
「勇者の資質じゃない。目的のためなら、いくらでも残酷になれる……そんな連中は、共生派に転びかねない。そうではなく」
少し考える。
ロウツィルは正しい言葉を見つけようとした。無理だとわかった。
「……どこか弱く、脆い……愚かで……自分の大切に思っているものでさえ、間違えて捨ててしまう。台無しにする。そんなやつらが必要だ」
「ロウツィル殿下」
「俺はこれから悪いことをする。ノルガユ・センリッジという天才がいた。聖印の調律者として、間違いなく歴史に残るであろう男だった」
ロウツィルは、闇の中で身を起こす。
全身が痛んだ。それに恐怖もあった。これから自分は死なねばならない。
「俺なんかじゃなく、やつを勇者にしろ。そう……俺なんか。俺なんかに割く記憶力があれば、他のやつを探してくれ。俺は……これから先の未来には、あまり必要じゃない」
考えた末の結論だった。
が、それを認めることは、それを自分で理解することは、どうしようもなく辛かった。あまりにも虚しい。
それでも、そのことを認めれば――この先の世界で、歴史で、自分の名前が意味のあるものとして刻まれるかもしれない。
それだけが一つの希望だった。
そんなくだらないことに希望を持つなんて、どうかしていると我ながら思う。
ただの虚栄心だろう。しかし、それでも。
「……ノルガユ・センリッジですか。その方は、いつ亡くなられましたか? 日数が経過していて肉体さえもなければ、蘇生の難易度は上がります。エンフィーエの能力によって得られる情報も劣化します」
そのことについては、よく知っていた。
第一の《女神》による英雄の召喚において、しばしば起こり得ることだ。ノルガユ・センリッジが死んだのは、たぶん数日前。肉体もどこにあるかわからない。
「記憶と人格の再現も難しくなる。まったく別の人間になりかねない」
「聖印の技術と知識だけでいい。それと、的確に動く肉体。そこにだけ集中してくれ。それならば精度は高くなるだろう」
自分は邪悪なことを言っている、と思った。
ノルガユ・センリッジを冒涜している。しかし、それでも。
「記憶と人格は、どうでもいい――いや。これから俺が話す。書き留めてくれ。罪も捏造しようか。何かあるか?」
「ちょうどいま、王宮を爆破し、陽動とする予定でした」
「では、それだ」
ロウツィルは明確に思い浮かべる。ノルガユ・センリッジ。理想の王政というものを、しっかりと想像できる男だった。
「それでも足りない分は俺の人格と記憶を使え」
二人分の人間を混ぜ合わせるような形で、まったく新たな人間を作る。
そういうことを言っている。試してみたことはある――いまひとつ成功とはいかなかったが。
「なんなら俺の体も使っていいぞ。お前には、いまから俺を殺してもらう。俺は意志が弱い――臆病者だ。何を喋ってしまうかわからん」
「……不安ですね。かなりいびつな、継ぎはぎの人格と記憶が出来上がりそうです。元の本人とはかけ離れた……」
「それでもいい。必要なのは、聖印の技術だ。天才だった男の知識と発想力だ」
自分はやはり邪悪だと思う。
自分のためではない――友のためでさえない。
もっと何か別の、くだらない、しかし血の煮えるような物語のためだ。
「前例がありません」
と、カフゼンはなおも食い下がろうとしたようだった。
「勇者を捏造するのにも似ています。絶対に、人格に歪みが出るでしょうね。どんな問題が出るか予想もつきません」
「それはそうだな。だが、やってもらう」
そもそも人格を捏造することができれば、いくらでも都合のいいように書き換えた英雄を召喚できるのだ。いままでそれが行われていなかったからには、やはり無理があるのだろう。
だが、ノルガユ・センリッジは必要だ。
きっとこの先の戦いで切り札になる。その確信がある。
「カフゼン。つまらなさそうな顔だな」
ロウツィルは、関係のないようなことを口にした。
現実を直視すると心が折れてしまいそうだったからだ。
「もっと楽しそうに笑え。いつもお前がそうしてきたように」
「……限界ってものがありますよ。私は殿下のことが好きでした」
「俺はお前が嫌いだった。弱い者をいたぶるような笑い方をする。それはお前の本性だろう?」
ロウツィルが言うと、カフゼンは無理やりに顔を歪めようとした。
笑おうとしたのだろう。
「殿下にそう言われると、この役目を果たしきる自信が出てきますね」
「そうだろう。では、これは俺からの最後の命令だ。時間がないから、しっかりと書き留めろ。俺たちはいまから勇者を作る」
ロウツィルは大きく息を吸って、吐いた。
「始めるぞ。ノルガユ・センリッジという男は――」
そうしてロウツィルは、ノルガユ・センリッジについて話した。
王政に対する彼の意見。彼の考え方。王の在り方をどう思っていたか――どう変わるべきと主張していたか。
語る言葉は、思ったよりも長くなった。
その日、かつての王太子、ロウツィル・ゼフ=ゼイアル・メト・キーオは消息を絶った。
行方を知る者は誰もいないという。
そうして同じ日に、人造の勇者、ノルガユ・センリッジが生まれた。
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