刑罰:ミューリッド要塞防衛汚染 顛末
空中で、魔王『イブリス』が身を翻した。
音もなく翼を羽ばたかせる。
さらに体が膨張していた――いまでは巨大な翼をもった、牛とオオカミの中間のような怪物だ。
「攻撃の機会があるとしたら、あと一回」
俺はテオリッタにささやいた。
軍事的な判断のことなら、聖騎士が負うべき役目だ。
《女神》が諦めていないというのなら、俺もまたその仕事を果たさなければならない。
ここで投げ出して寝転がっていても殺されるだけだし、とんでもない無能みたいだし、後で馬鹿にされたくないからだ。
格好つけて突っ込んでいって、諦めてダメでしたとは言いたくない。
絶対に我慢できない。
「あっちも警戒している」
俺たちの頭上を滑空し、無数の目玉で注視しているとはそういうことだ。
「ただ、結局は攻撃してくるしかない。
先ほどの仕掛けで、大地が泥濘化している。
こっちに押し寄せれば大損害が起きるだろう。
「そうなる前に、仕掛けてくる」
あの魔王現象『イブリス』に大した知性はなくても、そのくらいの判断はできる。
たいていの獣よりは賢い。
「空中からの急降下だろうな。交戦時間は一瞬。しくじったら、そのときは、あいつがもっと有効な武器を生み出すかもしれない」
魔王『イブリス』の鉤爪――さっき俺を切り裂いたそれは、いっそう大きくなっている。
あの魔王の本質が、俺の睨んだ通り適応変化にあるとすれば、あれが俺に対して有効な武器だと感じたのだろう。いまは剣のように長く、鋭利だ。
「以上だ。いまのところで、何か希望が持てる要素はあるか?」
「それならば」
テオリッタは顔をあげた。
唇が少し震えている。恐怖を抑えきれていないのがわかる。それでも笑顔なのは、俺に対して意志の強さを見せてやろうと思っているからだ。
生意気にも、「勇気づけようとしている」。
くそ。
「楽勝です。私を誰だと思っているのですか?」
期待されている。
仕方がない。俺は苦笑いをするしかなかった。
「剣の《女神》、テオリッタ」
「そうです。偉大な剣の《女神》です。そしてあなたは、我が騎士です」
彼女の金髪が、火花を発していた。いままでにないほど強い火花だった。
「特別な剣を用意します。……本当に特別な剣を」
「不死身の相手を殺せるのか? どうやって?」
「……どうやって、というのはありません。聖剣と呼ばれる剣です。この剣が滅ぼせない相手は存在しません」
「あいつを殺す方法は、毒以外にないって予言した《女神》もいるぜ」
「正確には、方法がこの世にないというだけでしょう」
その通りだ。テオリッタは強張った笑みを浮かべた。
「よって、この世の外から呼びます。相手が一騎であれば、恐れることは何もありません」
恐れることはない、と言った彼女が最も怖がっているだろう。
「一呼吸の間、機会を与えます。私が必ず持たせます」
つまり、一撃で絶対に命中させろということだ。
であれば、単純に技術的な問題だ。俺が解決すべきことだった。
「ほかに必要なものはありますか?」
「ない」
あとは恐怖を克服する勇気さえあればいい。そういう話だ。
ただし、たぶん俺に勇気などはない。
あるのは耐えがたい怒りだけだ。呆れるほどの忍耐力の無さに振り回されて生きている。
だから、
「任せろ」
とだけ言うことにした。本当のことを言うのは恥ずかしいからだ。
もっと正直なことを言えば、自信があるわけではなかった。
俺は兵士であって剣士ではない。
聖騎士の伝統として剣術は習ったが、せいぜい人並という程度だ。それで当てられるか。
もう少し集中したかった。
呼吸を落ち着けて、その一撃に備えたかった。が、相手がそれを待つはずもない。
魔王現象『イブリス』が、大きく翼を動かした。
ほとんど俺たちの真上に差し掛かる。
その、緑色の月を背にした一瞬で、翼を畳んだ。急降下――巨大な爪が、やけに輝いて見える。
素早いが、しかし単純な攻撃動作だ。
「我が騎士」
と、テオリッタは言った。
その両手が、虚空から鞘の払うような仕草をした。
まばゆい火花の輝き。手の中で稲妻が走ったようだった。
剣がテオリッタの手中に現れる。
自ら輝くような、曇りのない銀の両刃。まるで装飾のない、最前線の兵士が扱うような片手剣――これは助かる。まだ少しは訓練した覚えがある。
テオリッタは、それを俺に放った。
降下してくる『イブリス』を睨む。
テオリッタの呼び出した、得体のしれない剣を掴む――相手の動き、それ自体は単純だった。正直ともいえた。
まっすぐだ。
(迎え撃つのは難しくない)
自分にそう言い聞かせる。
予想通りに『イブリス』は頭上、真正面から突っ込んできて、そして、俺は愕然とした。
(本気かよ)
花が開くのを見るようだった。『イブリス』の体が変化していた。
(インチキしやがって)
ぶつん、と『イブリス』の体が自ら引き裂かれ、その胸部の肉が開き――瞬時に、鉤爪の生えた腕が増えた。
二本だったものが六本。
俺は左手に握ったナイフで、そのうち一本の攻撃を防いだ。
二本目は身をよじり、肩で受け、三本目が腹に食い込む。
痛みなんて気にしている場合ではないが、あと三本――くそ。
四本目と五本目が俺の首を、六本目の腕が長く伸び、テオリッタを狙っている。
テオリッタを防御しなくては。
攻撃を捨てても――俺には、それが重要なことに思えた。
どう考えても、戦術的には大きな間違いだ。結局は俺が倒れれば二人ともやられることになる。
あらゆる面から擁護できない失敗だ。
――そういう間違いを犯さずに済んだのは、つまり、俺はわかっていなかったということだ。
俺はもう聖騎士ではない。
テオリッタと二人で戦っているわけではなかった。
「ザイロ!」
ドッタの声だった。
聖印越しに聞こえるのではない。馬に乗り、必死の形相で駆けてくる男が見えた。
やつはすでに雷杖を構え、それを撃っていた。連発式の雷杖で、四度。
「なにやってんの!? バカじゃないか、さっさと逃げよう!」
ドッタには魔王現象『イブリス』と、
恐るべき無知ゆえに、そんなことができた。俺が魔王本体と一騎打ちしているなど、やつの常識ではあまりに愚かな行為であり、考えられなかったに違いない。
俺もちょっとそう思う。
ともあれドッタの下手な射撃は、『イブリス』の大きく広がった翼を貫いた。
立て続けに二発。
こいつの腕では、ほかの部位に当てることができなかったともいえる。それに残りは外れた。
が、それは確かに『イブリス』の体勢を大きく崩していた。
傷がすぐに癒えるといっても、翼に穴を開けられては、瞬間的な攻防ではどうしようもない。
テオリッタを狙った腕がブレて、攻撃が外れる。
そして、ドッタの放った稲妻は、ミューリッド要塞の天守からもはっきりと観測できた。
『あー、見えました。これ、最後の一発っスからね』
それはツァーヴの気の抜けた声だった。
稲妻が走る。
それは『イブリス』の翼に大穴を開けていた。決定的に体が傾く。
『当たりました? さすが陛下の狙撃杖……』
ミューリッド要塞、天守からの狙撃だった。
この距離で、この条件下で、『イブリス』の翼を正確に撃ち抜くというのは、もはや超常現象としか思えない。
後に聞いた話によると、ノルガユ陛下の調律した狙撃杖に、レンズを取り付けた代物だったらしい。
ともあれ、『イブリス』の攻撃は失敗した。
増やした腕は無意味になった。
落下するように、俺に突っ込んでくる。
その頭部らしき場所が、ぶつんと開く。牙の生えそろった顎が生じるが、そんなものは苦し紛れの自己変化だ。
この距離だと避けきれないが、構わない。
俺は左腕を差し出しながら、剣を振り上げた。
『イブリス』が俺の左腕に食いつく。牙の激痛――それに対して怒りを覚える。ふざけやがって。それが俺の原動力だった。
この状況なら、いくらなんでも外さない。
銀色に輝く剣が『イブリス』の体を突き刺す。真昼のように鮮やかな火花が散った。
何が起きるかはわかっていた。
テオリッタは、「この剣に滅ぼせないものはない」と言っていた。
そして『イブリス』は、あらゆる攻撃に変化適応し、どんな致命傷からでも蘇生するような魔王現象だ。
その二つがぶつかった場合、どうなるかというと――簡単なことだ。
「聖剣に滅ぼせないものは、存在しません」
テオリッタの、疲弊しきったつぶやきが聞こえた。
「……存在しません」
俺は剣を深く突き込む。
ぎっ、と、剣の切っ先が何かを壊した。そういう手ごたえがあった。
次の瞬間、魔王現象の主『イブリス』は、跡形もなく消え去っていた。
文字通り、どこにもいない。
ただ風が渦を巻いただけだ。
剣で刺し貫いたと同時、その存在は消滅していた。
(とんでもないな)
俺は手の中の剣を見た。
あっというまに錆び、砂のように崩れていく。
滅ぼせないものは存在しない――という剣の意味するところは、存在を禁じるということらしかった。
こういう剣を、テオリッタは呼び出せる。
はっきり言ってめちゃくちゃだ。
(聖剣って言ったよな)
現存する《女神》で、こういうことができる者は俺も知らない。兵器を呼び出せる《女神》もいるが、それはあくまでも物理的な現象の範疇だったはずだ。
テオリッタにはそれができる。
それは、ひどく危険なことのような気がした。
「我が騎士」
テオリッタは、もはや立っていられなかった。
その場に倒れこむのを、かろうじて支える。
「私、なかなか偉大でしょう?」
「そうだな」
はっきり言って俺も限界だった。肩と背中、脇腹、左腕。
血を流しすぎた。意識が持たない――馬で近づいてくるドッタのアホ面も霞んで見える。
「偉いよ、お前は」
俺はテオリッタの金髪を撫でた。
「でしょう」
と、テオリッタは満面の笑みを浮かべた。自分の行為がすべて報われたとでもいうように。
もしかすると――と、俺は思う。
こんなものは普通のことなのか。
《女神》の在り方についての話だ。
歪んでいるように見えたのは、俺が自分自身を見ているようで、腹が立つだけなのかもしれない。
俺だって、いま、こうして必死で意識を保ち、ドッタに対して偉そうに笑ってみせている。
すべては格好をつけるためで、他人から少しでも強いやつだと思われたいからで、自分を特別だと思っていたいからだ。
そんなものはテオリッタの行動原理と何も変わらない。
だから俺は残った気力と体力をかき集めて、ドッタに対して吐き捨てた。
「遅えよ、アホ」
その強がりが限界で、俺はそのまま気絶した。
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