桃色の煙草

高村 芳

桃色の煙草

 私は、嘘吐きでいたい。


   *


 旧校舎が好きだ。西日が降り注ぐ廊下の床板は、多くの生徒に踏みしめられてきたからか、歪みながらも磨かれたような艶やかさがある。三年間歩いてきた廊下は、相変わらず同じところで「きい」と音を立てている。古びた木の香りと窓から吹き込んできた若い草木の香りが入り交じる廊下を、一歩ずつ感触を確かめるように私は進んでいく。

 北の突き当たりには理科室と技術室が並んでおり、その間にひっそりと身をひそめるようにして理科準備室はある。私はプリントの束を抱えつつ、ノックもそこそこに引き戸を開けた。


「先生、頼まれたもの持ってきました」


 先生は細長い部屋の奥にある窓を背にして、さっと後ろ手に何かを隠した。入ってきたのが私だとわかった途端、緊張していた表情が緩んで眉尻が下がった。部屋に残る苦い香りと先生の背後にくゆる煙で、先生が隠れて煙草を吸っているのは一目瞭然だった。


「びっくりした、結城か。すまんな最後まで」

「ほんとですよ。と、いうか、私だから良かったものの、他の先生や生徒に見つかったらどうするんですか」


 私が煙草のことをたしなめると、先生は「悪い悪い」とちっとも悪気のなさそうな返事をして、窓の隙間から煙を吐きながら換気扇の紐を引っ張った。換気扇は徐々に速度を上げていくが、どこか壊れているのか、カラカラという乾いた音がする。旧校舎の端で人が少ない時間ではあるものの、敷地内で煙草を吸っていることがバレたらおそらく大目玉だろう。しかしこの先生はいくら言っても煙草を止めようとしない。たまに注意しても、煙草を吸っているときの表情とはうってかわって、まるで大人に隠れていたずらする子供のような顔をして笑うのだ。

 先生は職員室が苦手なようで、放課後はたいていこの理科準備室に身を寄せていた。もしかしたら煙草を吸うためだったのかもしれないと、今では思う。部屋を満たす独特の薬品の匂いや、先生の吸う煙草の匂いには慣れないけれど、ささくれだった木製の大きな棚に、所狭しと並んでいるビーカーやフラスコが西日できらきら光るのが、私はとても好きだった。


「で、どうよ? 結城」

「どうって、何が?」

「卒業した気分は」


 散らかっている先生のデスクの上には、教科書やノートやファイルが無造作に積み上げられていて、今にも滑り落ちそうだ。私はその中でも比較的安全そうな山の上に、無理矢理プリントの束を置いた。

 先生は灰皿代わりの縁が欠けた乳鉢に煙草を押しつけてから、部屋の丁度真ん中に向かい合わせに置いてあるソファに腰掛けた。「まあ座って」と、私には斜め向かいの席に座るよう勧める。座面の布が剥がれかけているソファに座ると、スプリングがへたってしまっているのか、右側のほうが深く沈んでしまう。

 「もう一本いい?」と、先生は胸ポケットから桃色の煙草の箱を取り出した。私が「何を言っても吸うじゃないですか」と嫌味を言う前に、煙草の先にマッチで火が点けられていた。銘柄はいつも同じ「pianissimo」。先生の指よりもさらに細い煙草が収められている桃色の箱が、先生の濃紺のスーツにやけに映える。その柔らかな桃色は、私の制服の胸元に飾られたリボンに付いている造花の色とよく似ている。


「うーん。寂しい、のかな。やっぱり」


 先生の薄い唇から吐き出される白い煙を見て、私はぽつりと呟いた。


 学校に来て友達と話して笑って、たまに勉強して。三年間もそうやって過ごしてきたのに、明日から、私はどこに行って何をすればいいのだろう。四月からは隣県の大学に通うことが決まっているが、新しい服に袖を通し、乗ったことのない電車に乗る自分の姿が想像できなかった。このまま高校で過ごした日々が無くなってしまうんじゃないかという怖さに足を浸したまま立ち尽くしている私のこの思いを、おそらく「寂しい」というのだろう。


「そうだよな。俺もおまえらが卒業して寂しいわ」


 先生は乳鉢の縁にこつんと煙草を当て、灰を落とした。


 この世には今、私と先生以外いないんじゃないかしらと思うくらい静かだった。聞こえるのは、換気扇が力なく回り続ける音と、先生が深く息を吐き出す音と、時計の乾いた音だけだ。もうほとんどの生徒が帰ってしまったからなのだろうか。卒業式の後の校舎はこんなにも静かで、冷ややかで、埃っぽいのかと思う。

 この旧校舎は、私たちの卒業直後に取り壊され、新校舎に改装されることが決まっている。友人たちは在校しているときに新しくなってほしかった、と口々に話していたが、私はまったく逆のことを考えていた。窓際に備えられた古い換気扇も、欠けた乳鉢も、へたったソファも、そのままずっとここにあればいいのに。


 目の前でソファに浅く腰掛けている先生は、私が見たことない先生だった。いつも授業中に着ていたクタクタの白衣は皺のないスーツに変わっていて。いつだって優しい微笑みを浮かべていた黒縁の眼鏡の奥の目でさえも、今では寂しげに長い睫毛が伏せられている。辺りに漂う煙草の煙は夕焼けの色に染まってから、換気扇の羽の隙間に吸い込まれていく。


「最初のホームルームのとき、覚えてるか?」


 私は突然の先生の質問に、咄嗟に答えられなかった。先生はもう一度煙草を深く吸う。もうこの姿を見るのは最後かもしれないと、煙草を挟む細い指から目を離さずに先生の言葉を待っていた。


「最初のホームルームで学級委員を決めるとき、誰も立候補しなくてさ。このクラス、大丈夫か?と思ったんだよ、ほんと。そしたら結城が手、挙げたんだよな」


 覚えてる。

 一年ほど前、始業式直後でクラス全体がざわついたままのホームルームだった。学級委員なんて面倒くさいことはしたくない、という空気中で先生が頭を抱えていたから、私は思いがけず手を挙げてしまったんだ。


「体育祭とか文化祭の雑務も結城がやってくれたし、プリントもよく集めてもらったし。今思えば、結城に頼りっぱなしの一年だったなあ」


 結城がいなかったらどうなってたことやら、と先生は軽く目を細めて、眼鏡にかかる前髪を耳にかけた。その仕草がいつも私の目を奪って離さなかったことを、そして今も目を離せないことを、先生は知らないだろう。


 煙草を乳鉢の底に溜まった灰に押し付けた瞬間、先生は何とも言い表せないような顔をした。口角を無理に引き上げて、見ているこっちが苦しいような、そんな顔。


「ありがとう、結城」


 そう言いながら先生は頭を下げた。窓の隙間から吹き込む風に、先生の癖っ毛が揺れている。


「結城のおかげで、本当に良い一年になった。誰よりも、頼りにしてた。本当、ありがとう」


 先生は顔を上げた。まっすぐに私の方を見ていた。


 いつからだろう、先生に、そして自分自身に嘘を吐き始めたのは。

 こうやって微笑みかけられることにも、先生が私と二人きりのときに吸う煙草の香りにも、私は慣れない。こんなにも心臓が掴まれたように、胸が苦しい。私は先生に「嘘」を吐き続けなければならないことを忘れてしまいそうになる。


「先生、」


 言うな。言うな、私。


「ん?」

「私……」



 思えばこの一年間、私はずっとはこうだった。先生を想う気持ちに嘘を吐いて、零れ落ちそうな言葉をなんとか自分の中に留めて。胸の隅っこに追いやって追いやって、でも消えないその想いは、多分これからも消えることはない。



 嘘を吐け、私――



「……本当に楽しい三年間だった。ありがとう、先生」

「そうか。俺も嬉しいよ」


 先生は右手を差し出した。私も右手をゆっくり出すと、先生は力強く私の手をとった。初めて握った先生の手は、見た目とは違って骨ばっていて、想像していた以上に熱かった。


 ――良かった。私は、嘘吐きでいられた。



   *



 もう薄暗くなっていた帰り道には、まだ春とはほどとおい冷たい風が吹いていた。橙色の街灯に照らされた桜のつぼみ。咲くのはもう少し先だろう。私は先生の桃色の煙草の箱を思い出しながら、家路についた。



   了

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