チェシャ猫とアリスの出会い
綾人がチェシャ猫の役割を与えられたのは中学三年の時だ。
一冊の本を手に取り、そのまま童話の世界に紛れ込んでしまったが故────そこから、綾人は一年間行方を眩ませてしまう。
そして、綾人が戻って来た頃にはチェシャ猫という役割を与えられてしまった。
そこからの綾人は変わる。
親元には帰ろうとせず、ただただ世界を飛び回りチェシャ猫としての役割を果たそうと。
時に見ず知らずの人間を不幸に貶め、時に見ず知らずの人間を導き助言する。
その時の綾人は終始笑ったまま。
もちろん、童話の世界に紛れ込んでしまったのは綾人だけではない。
姫の美しさに嫉妬し、憐れで醜く世界で一番を求めた后に、かぼちゃを馬車に変えた好奇心旺盛な魔女、純粋で優しく貧困故に己のマッチの火でしか夢を見れなかった少女。
他にも、綾人が出会ってきた人間は存在する。
その全てが普通の人間という枠組みから外れてしまい、悲しくも与えられた役割のレールの上しか走れなくなった者達。
そんな者達が住んでいた童話の世界は恐ろしい場所だ。
皆が野心を抱え、童話だけでなく現世でも己に与えられた役割の権能を駆使してその手を汚していく。
全ては、
その為には、童話の
「やっと見つけたぜ……アリス……ッ!」
綾人も、その一人だった。
世界を飛び回り、やっとの想いで見つけた
不思議の国のアリスが主人公────アリス。
その少女がロシアの辺境、煉瓦街が並ぶ路地の奥へとひっそりと追いやられていた。
目の前には青いエプロンドレスをこれでもかというぐらいに汚し、身体中に痣という痣を作って力なく横たわっていた。
綾人がした訳ではない。他の
「……さぁ、
綾人は雪が積もる路地を歩く。
少女に近づき、己で役割をいただく為に。
しかし────
「えへへっ……私、ヘマしちゃったかなぁ……?」
「したんじゃねぇの? じゃなきゃ、主人公が登場人物程度にそこまでボロボロにされる訳がねぇからな」
「そう、なのかな……? でも、痛いのはダメだと思うんだぁ……」
何を甘い事を。綾人は少女に対して侮蔑の視線を向ける。
甘いだけでは生きていけない。それは、今の自分の姿を見れば分かるだろうに、と。
でも、綾人は気づかない。
本来であれば、少女の言う事こそ人間では当たり前の事なのだ。
「不思議の国のアリスがチェシャ猫────その役割、貰い受ける」
綾人は笑いながら、腰に携えた剣を引き抜き少女に振るった。
だけど────
「ッ!?」
────綾人の刃が少女の首を切る寸前で止まる。
何かに防がれたからだとか、横槍が入ってきた訳ではない。
ただ────
「お前ッ! どうして抵抗しねぇんだよ!?」
────少女が、何もしなかったからだ。
一切の抵抗すらなく、ただただ綾人というチェシャ猫を見据えて、優しく笑うだけ。
「だって、もう力が入らないんだもん……それに、私は君を傷つけてまで生きたいとは思わないから……」
「お前はアリスだろう!? それなのに、こんな所でくたばってもいいってか!?
どうして自分がここまで激情に駆られてしまっているのかは分からない。
だけど、どうしても────少女のその言葉が、許せなかった。
「私、そんなのいらないよ……ただ、お家に……国に帰りたいだけだもん……好きで、アリスになったわけじゃないもん」
少女は突きつけられた剣を摘んで、ゆっくりと地面へと下ろした。
「ねぇ……? 君は、誰?」
「……は?」
「ずーっと笑ってる君は誰なの? 童話の役割を与えられただけで、人を簡単に殺しちゃうの? 人間だった君は────人を簡単に殺してたの?」
アリスは真っ直ぐにチェシャ猫ではない綾人を見据える。
確かに、人間であった頃にはそんな考えも、こんな躊躇なく剣を突きつけた事もなかった。
全ては、チェシャ猫になってから。
その事に気づき、言葉を詰まらせる綾人。
それを見て、アリスは再び優しく微笑んだ。
「うん、君はまだ人間なんだよ……私の言葉に耳を傾けてくれるもん……。あのね? 私を殺していいよ……でも、役割に振り回されず、ちゃんと君という人として……これからは生きて欲しなぁ……」
そして、少女はゆっくりと目を伏せる。
それ以上の言葉を紡ぐ事なく、ただ少年に斬られるのを待つだけ。
それが何とも歯痒い。
先程までの自分であれば躊躇なく剣を振り下ろせた筈なのに……今は振り下ろす気になれなかったのだ。
(……クソッ!)
どうしてか分からない。
別に感化された訳じゃないのは、己がまだ
だけど────
「えっ……?」
綾人は力なく座るアリスを担ぎあげた。
そして、ゆっくりと路地の先を歩いていく。
「……勘違いするなよ。別に、俺はお前の言葉に諭された訳じゃない」
担がれたアリスは驚く。
だけど、胸に伝わる綾人の温かさが妙に心地よくて────
「ふふっ、君って優しいね……」
「うるさい……」
どうして、己がアリス助けたのかは分からない。
どうして、このアリスは殺してはいけないと思ってしまったのか分からない。
それでも、綾人は笑いながらアリスを担いだまま路地の闇に消えていく。
それが、童話のアリスとチェシャ猫の出会いだった。
♦️♦️♦️
「……くん、チェ……くん……!」
「……ん、んんっ」
チェシャは耳元で聞こえる声で目を覚ます。
何時間眠っていただろうか? 揺れる馬車の中だと起きた時の疲労感が半端ない。
ゆっくりと瞼を開けたチェシャは、眼前まで迫った少女の顔を見て口を開いた。
「……着いたの?」
「もうすぐ着くんだよ! だから起こそうと思ったんだけど────ぐっすりさんだったね!」
ぐっすりさんなんて聞かないなぁ、と思いつつも、チェシャは首を動かして意識を覚醒させる。
「もうすぐ着くんなら、この縄解いてくれない? これじゃあ恩人って言うより捕虜か賊じゃねぇか」
「大丈夫! なんか、チェシャくんは解いた瞬間に逃げそうな気がするのでお家に入るまで解きません!」
「大丈夫って言葉の意味知ってる?」
綾人はアリスの頭を心配してしまった。
「それより、いい夢でも見てたの? ちょっとだけだけど……チェシャくん、笑ってたよ?」
いい夢……そうなのかな? と、疑問に思ったチェシャ。
だけど────
「アリス……かぁ……」
「ふぇっ? 呼んだ?」
「いいや……なんでもないよ」
不思議と、彼女の顔を思い出しただけで胸が温かくなった。
それに、今ここにいる彼女の声を聞いても……同様に、心が温かくなる。
「けど……これって、普通に拉致なんだよなぁ……」
手足を縛られている現状。
例え温かくなったとしても、しんみりとした空気にはなれなかったチェシャであった。
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