人助け
「はぁああああああっ……」
スラムの入口。綾人は市場の路地が見渡せる場所に座り込み、一人大きなため息をついていた。
せっかく手に入れたお金を返し、再び無一文となった男。これからどうしよう、という悩みが胸の内を支配していたのだ。
「金もない、食べ物もない、幸いにして寝床はあるが……ライカってよく生きてたよなぁ……」
寝床といっても、昔の自分では考えられないようなおんぼろ小屋。
とりあえず雨風を凌いで、とりあえずのベッドを用意したとでも言わんばかりのもので、自分のいた世界では考えられない物ばかりだ。
これでも取り乱さないのは、ライカというこの状況で過ごしていた少年の記憶があるからだろう。
なければ、とっくに貧困で発狂している。
「さっきから悪事を働こうとすれば罪悪感に押しつぶされそうになるし……これじゃあ、チェシャ猫の役割を果たせないじゃねぇか……」
グリム童話、鏡の国のアリス。
その童話に紛れ込んでしまった綾人は『チェシャ猫』としての役割を与えられた。
だが、足を踏み込まなければただの日本の学生────子供であった綾人にとって、この環境はとてつもなく辛い。
「しかし……どうしたもんかねぇ……」
綾人は空を仰ぐ。
広がるのは先見えぬ青空。どんな思いで耽っていようが、どの世界でも変わらない青空が、その答えを返してくれることはない。
当初、綾人がすべき事は食料の確保だ。
衣服はそこらのスラムの人間よりかは上等な物を着ているので、変な侮蔑を込めた視線を浴びる事はないし、寝床もあるにはある。生きていく上ではやはり食料が必要不可欠だろう。
「……街を出るか」
外に出れば魔獣と呼ばれる害しか与えぬ生き物に出くわしてしまうが、自給自足する為にはそこしかない。
それに、今の綾人にはチェシャ猫の権能を有しているので、大抵の敵は排除できるだろう。
……ただ、難点を挙げるとすればライカも綾人も生き物を殺して調理するというサバイバル経験がない事ぐらいだろうか。
『ちゃんと笑って、生きて、ね……』
(分かってるよ……アリス……)
綾人は脳裏に蘇る想い人の言葉を胸に抱き、笑いながらその場を立った。
向かうは街の外。衛兵が門の入口を守ってはいるが、『不幸に貶める者』を使えば難なく抜けられる。
アリスが死んで生きる意味を失ったが、今はこうしてライカという少年とアリスの言葉で、生きようと前に向くことができた。
だっやら、何としてでも生きてやろう。そう、綾人は決意する。
「んじゃ! いっちょ生まれて初めてのサバイバルでも────」
そう意気込もうとした瞬間────
『むぅ〜ッ!!!』
綾人の目の前を二人の人影が横切る。
二人はフードを深く被り、全身黒一色の装束を身に纏っていた。
そして、気になったのは一人が抱えていた麻袋。
モゾモゾと動き、呻き声をあげていたその中身はきっと────
「人攫いねぇ……?」
向かった先はスラムの中。
治安が悪い事で評判なスラムでは人身売買や人攫いなど珍しくない。
事実、ライカであった時も何度も目撃したし、その度に捕まらないように隠れてきた。
であれば、今回もそのまま見ぬ振りをしてサバイバルに向かえばいいだけの事。
それだけなのだ────
「……なんだけどなぁ」
綾人は、その場で少しだけもう一度空を仰いだ。
♦♦♦
「合流地点はこの先でいいんだろうな?」
颯爽とゴミが溢れ返る場所を駆ける一人の男が、横を並走している男に尋ねる。
動き暴れる麻袋を肩に担いでいるのにも関わらず、声の男は一切の動揺も焦りもない。
「あぁ、その予定だ」
深くフードを被っている所為か、首を縦に振っているかどうかが分かりずらい。
それでも、男は構わずに路地という路地を走る。
この先の角を曲がれば、同業が待っている。
そこで荷物を渡せば、己の役割は終わり。後は酒場でも行って、酒盛りすればいいだけの事。
男の頭には、既に依頼達成と依頼後の休みをどう過ごすかだけでしかない。
そして二人の男が角を曲がり、待ち人がいる合流地点へと辿り着いた。
だが────
「いやぁ、いらっしゃいお二人さん。随分とお早いご到着で」
そこに居たのは、待ち人ではなく細身で茶髪の少年。
両手を血に染め、自分達と同じ装束を纏っている男達を踏みつけにして薄らと笑っていた。
「助言する者で先回りしたのはいいけど、普通に疲れたわー。こりゃ、改善の余地ありかもしれないなぁ……」
「……何者だ?」
すぐ様二人の男は抜刀する。
冷静な対応は流石。感情に駆られず、突然の事態でも動じず、現状を理解する為下手に動かないその行動は、やはりそっち側の人間だから故だろう。
「何処にでもいる猫ですよ。お二人はご存知じゃないと思うがね」
もちろん、男達は知らない。
こんな少年がいる事など。麻袋に入った少女の関係者は全て調べている筈なのに、どうして目の前に現れたのかが分からない。
嘯き緊張感も減ったくれもなくへらへらとした少年に向かって、麻袋を担いでいない男が短剣片手に肉薄していく。
会話などいらない。現れたのであれば、排除するのみ。
それが、自分達の受けた依頼だからだ。
しかし、子供と呼べる外見をした少年は、迫る短剣を前にしてもその笑みやめる事はない。
そして、少年は笑みを浮かべたまま口を開く。
「処刑人は言いました。切り離す胴がありません、と。頭があるなら切れるだろと言われましたが、何度剣を振り下ろしても首は切れません」
そんな少年を無視して、男は近づきすぐ様背後を取る。
そして、その薄ら笑った表情を消してやろうと短剣で少年の首を横に引き裂いた。
しかし────
「なッ!?」
短剣は綺麗に空を切る。
深く切り込んだはずの短剣から肉を断つ感触がなく、少年の首は元々が霧であったかのようにゆらゆらと揺れていた。
「女王は言いました。さっさと処刑せねば誰彼構わず皆処刑するぞ、と。しかし誰も切れません。ただただ、猫は薄らと笑うのみ」
何度も何度も首を刎ようと短剣を振るう。
だけど、その短剣は喉を切る感触を感じさせず、首を通り抜けていく。
「おいおい、首が切れねぇって言ったばかりだろ? 話も聞かない男は女にモテないぞ?」
即座に殺す事を生業としてこなしてきた男が、有るまじき声を発した。
それでも気を取り直し、今度は背後から心臓目掛けて容赦なく短剣を突き刺す。
────だが、それも感触がない。
指しただけの筈の腕が少年の体に突き刺さり、少年の胴体に風穴が空いた。
にも関わらず、少年は笑っていた。
「首が切れない、体がない。それでも生きている、笑っている────つまり、その猫は実体のない生物であった事の証左。処刑人が首を切れないのも、それなら納得するだろ?」
一人、理解のできない事を言う少年に攻撃が通じない。
どんな原理でそうなるのか、男の知る範疇のものではなかった。
故に、頭の中では混乱していた男は少年から離れ一気に背中を向けて駆け出した。
きっと、これ以上得体の知れない相手に構う時間などないのだろう。それに続いて、麻袋を担いだ男も駆け出した。
しかし────
「逃げる方が悪手だぜ? って助言させてくれねぇのな。チェシャ猫が泣いちまうぞ?」
少年は手を叩く。
すると、背後から少年の体をゆうに超える巨大な鏡が出現した。
「『不幸に貶める者』の権能が一つ────
その瞬間、男達の意識が途絶える。
側には複数のトランプの衛兵が血塗れたスペードの槍を握っていた。
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