転生

「────ハッ!」


 少年は目を覚ます。

 ボサボサの茶色い髪は至る所が跳ねており、いつもなら重たげな瞼も今日に限ってはバッチリと開いていた。


 おんぼろな室内にとりあえず用意したとでも言わんばかりの簡素なベッド。

 そこに敷かれてあるシーツは汗でぐっしょりと濡れていた。


「……今のは」


 茶髪の少年────ライカは頭を押さえる。

 思い出すのは戦火。腕の中で涙を濡らし血で汚れた金髪の少女。薄ら猫のように笑う茶髪の少年。


 酷い悪夢だ……なんて割り切れない。

 あまりにも現実的で、夢という妄想で片付けてはいけないのだと……何処か自分の心が警報を鳴らしていた。

 それに────


「チェシャ猫……」


 己はチェシャ猫。

 鏡の国で公爵夫人の猫として少女に助言し、他者を不幸へと導き笑う────そんな存在。

 童話の世界に紛れ込んでしまったが故に与えられた────己の役割。


「あれ……俺の名前、なんだっけ?」


 先程見た光景が鮮明すぎる。

 まるで今を塗りつぶされたかのよう……ここにいる自分の名前……ライカ。

 その名前が、少年は思い出せなかった。思い出せるのは────チェシャ猫である自分と、鷺森綾人さぎもり あやとという名前。


 それと────


「アリス……」


 頬に自然と涙が伝う。

 その事が不思議で堪らなく、少年は己の顔を手で押さえると、自分が笑っている事にも気がついた。

 そして、一度溢れた涙は止まる事なく、激流のように押し寄せる悲しさがやってくる。


「アリス……アリス……ッ!」


 その嗚咽は今は亡き少女の名前を呼びながら。

 古臭い室内に、響き渡る。



 ♦♦♦



 ライカ────であった少年はそれからしばらく泣き続けた。

 思考は塗りつぶされ、鷺森綾人という自分が完全に頭から離れなくなってしまった。


「まぁ、いいか……」


 今の自分には親も知人も親しい人もいない。

 であれば、このまま鷺森綾人として生きていてもいいのではないか? そう割り切ったのだ。


「しかし、転生とは……童話でもあるまいし、随分と不思議体験でもしたみたいだなぁ……」


 ライカ、十六歳。

 サルバートという国のチェカルディという街で暮らす少年。

 両親はおらず、生まれながらにスラムという治安もへったくれもない場所で過ごしてきた。


 ここでの知識も経験も記憶も残っている。

 それが綾人にとってありがたかった。右も左も分からない状況で放り出される転移だと、今頃どうなっていたのか分からなかったからだ。


 それに────


「多分、ライカの記憶がなかったらもう一回首を切ってただろうし……」


 不思議と、少女との別れに生じた悲しみが薄れているように感じる。

 それはこの少年の記憶が入り交じり、綾人という人間の記憶を少しばかり薄れさせたからなのだろう。

 冷静に判断し、現状を呑み込む────僅か一時間でよくもできたものである。


 けど、それでも少女が消えた虚しさは拭えない。


『ちゃんと笑って、生きて、ね……』


 その言葉が胸の内から離れない。

 少女という存在が、綾人の頭から離れないのだ。


「ちゃんと生きますか……」


 綾人は、猫のように笑いながらその部屋から飛び出した。



 ♦♦♦



 外へ出た綾人がする事は一つだ。

 今日を生きる為、スラムでのゴミ漁り。真っ当に働いて日銭を稼がなくてはならないのだが、スラム出身の人間は中々雇われない。

 精々、冒険者ギルドに登録して日銭を稼ぐぐらいだ。


 だが、冒険者になるには試験を合格しなければならない。

 一定の金額を納めて、試験官とのタイマン勝負で『冒険者になれる存在か』証明する必要がある。


 今の自分には明日を生きる為のお金すらないのに、試験を受けれるはずもない。

 だからとりあえずはゴミ漁り────


「って、アホかぁああああああああああっ!」


 街の裏。スラム街といわれるゴミ溜めに綾人の声が木霊する。

 幸い、周囲に誰もいなかった為怪しい目で見られる事はなかった。


「俺はチェシャ猫だぞ……ッ! どうしてゴミ漁りなどという行為をしなければならない! チェシャ猫は悪だ……悪人は悪人らしく金を稼いだ方がいいに決まっているだろう!」


 そう言うが、実際にゴミ漁りは猫らしいと思うが。


「そうと決まれば、日銭稼ぎだ!」


 少年は心に火を灯し、スラム街から街へと繰り出した。



 ♦♦♦



 チェシャ猫は他人を不幸に貶める。

 その方法は多種多様。その方法の一つに『幻覚』というものがある。


「なぁ、おっちゃん! この焼き串くれよ!」


 綾人がやって来たのは往来が激しい市場の一角。

 芳ばしい香りが漂う露店。屈強な男が肉を棒に刺して焼いている。


「お! いらっしゃい! 何本いるんだ?」


「とりあえず三本くれ! 金はこれでいいだろ?」


 そう言って、綾人は懐から金貨を取り出す。

 焼き串の値段は銅貨三枚。金貨は銅貨千枚と同価であり、その間にある銀貨は銅貨百枚になっている。


「あいよ! じゃあ串三本に銀貨と銅貨のお釣りだ!」


 そう言って、男は何の躊躇もなく綾人に串と銅貨と銀貨を渡した。


「ありがとよ、おっちゃん!」


 綾人はそれを受け取り、足早に立ち去る。

 串を頬張りながら、あっという間に往来の人混みに紛れ込んでいった。


 ────今日を生きる日銭もない綾人。

 そんな少年がどうやって金貨という大金を持っていたのか?


 それは至って単純。


「まぁ、『不幸に貶める者』の権能は健在って事だな」


 少年は、金貨など持っていない。

 少年が持っていたのはただの石ころ。男が受け取ったのもただの石ころ。


 なのに男は金貨だと思い込んでしまった。

 それは綾人が『不幸に貶める者』────チェシャ猫の権能の一つを使ったからに他ならない。


「『不幸に貶める者』は幻覚を見せる。それはどんな者だろうが、俺が思い描いた物を共有させる権能────これで、日銭もゲットして腹ごなしもできた。これこそ、一石二鳥ってやつだよなー」


 綾人は歩きながらそんな事を呟く。

 その行為は悪人そのもの。チェシャ猫としての────いや、としての本質そのもの。

 だが────


「……しかし、昔はなんて事なかったのに、こうして罪悪感を覚えてしまうのは、アリスに絆されたからなのかもな……」


 不思議と、胸に罪悪感を覚えてしまう。

 昔ならばいざ知らず、こうして真っ当な考え方をしているのも、きっとアリスの影響なのかもしれない。


 そんな事を思いながら、綾人は回れ右をしてひっそりと屋台へと戻る。


 綾人は再び、無一文になってしまった。

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