第三話 伝わってる

 夜には今までと同じように、シルの髪に結んだ森の飾りオール・アクィトを解いて外す。そして、シルの長い髪を梳かす。

 森の飾りオール・アクィトを結んだり解いたりを、シルは自分でするとは言い出さなかった。いつも俺に「やって」と言う。シルはいろんなことを自分でできるようになって、するようにもなったけど、いくつかのことはまだ俺の仕事のままだ。

 正直なことを言ってしまうと、俺もこうやってシルの髪を梳かす時間が好きだったから、シルが自分でやると言い出さなくて少しほっとしている気持ちもあった。きっと、本当は、シルが自分でできるようになった方が良いんだろうなって思ってもいるけど。


「ユーヤは」


 その日の夜も、あてがわれた部屋で森の飾りオール・アクィトの編み込みを解いていた。その途中で、椅子に座っていたシルが急に顔を持ち上げる。急に動いてしまった頭に、髪を引っ張りそうになって慌てて力を緩める。


「ユーヤは、言葉をたくさん知ってるよね」


 シルの声に、俺は手を止めて瞬きを返す。シルの言いたいことが、わからなかった。


「今までもずっと、ユーヤはいろんな人と話してたよね。ユーヤはどうして言葉がわかるの?」

「どうしてって言われても……」


 返答に迷って言葉が続かなかった。なんとなく、シルが自分で俺以外の人とも話すようになってきて、それでこういうことを考えるようになったんじゃないかって、それはわかる。

 でも、シルは今、俺に何を求めているんだろうか。


「何か言われてもわからない言葉ばっかり。どうやったらユーヤみたいにわかるようになる?」


 シルが真面目な顔で俺を見上げてくる。その視線に少し怯んで、俺は目を伏せて編み込みを解く手をまた動かし始める。


「俺も、わからない言葉ばっかりだよ。何度も聞いて、説明してもらって、教えてもらって、それでもほんの少ししかわからない」

「でも、でも。ユーヤはみんなと話してる」


 シルはそう言って、納得いかないという表情で顔を俯けた。


「実際はそんなに……うまく話せてないよ」


 編み込みを全部解いて、森の飾りオール・アクィトをそっと髪から外す。それをシルの目の前に差し出せば、シルは両手を持ち上げて手のひらの上に森の飾りオール・アクィトを受け取った。


「でも。ユーヤが話すといつも、なんとかなるから」

「それは……なんとかしなくちゃって、いつも必死で」


 シルの長い髪に櫛を通す。さらりと、銀色の髪が流れ落ちる。

 そう、ずっと必死だった。シルとはこうやって話すことが伝わったけど、他の誰とも言葉が通じなくて、でも何度も聞いて、繰り返して、覚えて、また次の知らない言葉を聞いて──ずっとそんなことを繰り返してきた。

 伝わることもあったけど、どっちかと言えば伝わらないことの方が多くて、でも──いろんな人や言葉のことを思い出して、俺はまた手を止めてしまった。シルが言うみたいに、俺は確かに話すことができているのかもしれない、と思ってしまったから。

 手を止めてしまった俺を、シルが振り返る。不思議そうな顔で、首を傾ける。俺はそれに笑顔を返すことができた。


「シルの言う通りかも。わからないことはいっぱいあるけど、それでもなんとか伝わって……だから、それって話せてるってことなのかも」


 俺の言葉に、シルが笑って頷いた。


「ユーヤはいっつも話してるよ」

「そうなら嬉しいな」


 俺はまた櫛を動かし始める。手の中で、シルの銀の髪の毛が柔らかく輝く。


「わたしも、ユーヤみたいに話せるようになりたい。ユーヤはどうやって言葉を覚えてるの?」

「どうやってって言われても……何度も聞いて、繰り返してるだけだから……」


 俺の言葉に、シルは唇を尖らせた。なだめるように、俺は櫛を動かし続ける。


「シルだって、言葉をいくつも覚えたよね。ありがとうイトスも、よく出来たハイバ・クトーも、手伝ってホレ・サウタだってわかるし、それに食べ物の名前もいくつも知ってる」

「でも。ユーヤみたいには話せてない」

「そんなことないよ。ケヴァさんによく出来たハイバ・クトーって言われてありがとうイトスって返すのと、俺が話してるのは、全然変わらない。同じことだと思う」

「同じ……」


 シルはまた顔を俯けてしまった。自分の手の中の森の飾りオール・アクィトをじっと見るように。シルの髪を梳かしながら、もっと良い言葉はないかと考える。

 そのまましばらく、シルも何も言わなかった。俺も黙ったまま髪を梳かしていた。ただ静かだった。雪が降る音が聞こえるんじゃないかってくらいに。

 それでも、いつまでもこうしてはいられない。さらさらと流れ落ちる銀の髪の毛をそっと持ち上げて白い耳にかけて、俺は髪を梳かすのをやめる。シルの顔がまた持ち上がる。


「わたしも、話せてる? ユーヤみたいに」


 不安そうに、シルは俺を見ていた。俺は大丈夫という気持ちで小さく頷いてから、もう少しだけ考える。

 旅の中で、シルの好きなものはきっとたくさんになった。やりたいこともできた。言葉もその一つだと思えば、そんなに難しいことじゃないって気がする。


「前に踊った時に、シルは言葉を覚えたよね。跳ねるパッタとか、右の爪先イールバツとか」


 シルが瞬きをして首を傾けた。誤魔化すつもりじゃないってことを示すために、俺は言葉を続ける。


「言葉もきっと、踊りとかからいものと一緒なんだと思う。シルは踊りとか食べ物とか、そういう言葉ならすぐに覚えるんだ。好きだから。俺が知ってる言葉はそれとは少し違うかもしれないけど、でも同じ言葉もあるし、それで良いんだと思う」

「でも、でも、それだけじゃ話せない」

「伝わってるから大丈夫だよ、きっと」


 俺を見上げるシルを真っ直ぐに見返して、俺はもう一度頷いた。


「シルの言葉は、ちゃんと伝わってる。俺の言葉が伝わってるのと同じくらいには」


 シルは何回か瞬きした後に、ほっとしたように笑った。




 シルの髪の毛を梳かすのが終わって、今度は俺の番だった。シルが俺の髪を梳かしてくれるようになって、最初は痛い思いもしたけど、今はもうほとんどそんなことはない。けれど実を言えば、こうやって髪を梳かしてもらうのはまだちょっと気恥ずかしい。

 櫛の動きを感じながら、そんな恥ずかしさを誤魔化すために、肩に落ちてくる髪の毛を指先で摘む。随分と伸びてしまったと思う。

 それでなんとなく、自分はもう高校生じゃないんだな、と思ってしまった。きっともう、前みたいな高校生には戻れない気がする。たとえ、また髪を短くしたとしても。

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