第八・五章 砂漠の旅

幕間 ジェットコースターの夢

 最初から、これは夢だってわかっていた気がする。

 意味のわかる言葉のざわめき。日本語だった。自分以外が喋る日本語を久し振りに聞いた。夢だと気付いたのは、そのせいだった。

 大きな観覧車。その手前で大きな船が揺れている。それから、ジェットコースターのレール。大きな山の形のレールを人を乗せたコースターが登ってゆく。

 そして、叫び声。

 レールの山の頂点から一気に落ちて、その先は隠れて見えなくなってしまった。


「あれに乗りたい!」


 すぐ隣でそんな声がして、腕を引っ張られる。シルだった。

 銀色の長い髪はそのままで、好奇心に輝くアイスブルーの瞳もそのまま。でも、俺が通っていた学校の制服を着ていた。白いシャツに赤いリボン、面白みのない紺色のブレザー。プリーツスカートは膝上の長さ。

 俺も同じように、学校の制服を着ていた。旅の間に伸びたはずの髪だって、以前の通りに短くて、顔に落ちかかって邪魔になるような長さもない。

 シルは俺の腕を引っ張って、もう片手でジェットコースターのてっぺんを指差している。


「あ、えっと……」


 制服姿のシルを見て、なんだかこの光景が似合っているような、でもひどい違和感があるような、そのせいでうまく言葉が出てこない。そしてやっぱりこれは夢なんだと思う。




 ジェットコースターの列に並ぶと、シルはヘアゴムを取り出した。まるで森の飾りオール・アクィトのような、花の形のビーズで飾られたゴムだった。

 そのヘアゴムで、長い髪の毛をぎゅっと束ねる。雑な手つきでまとめるものだから、ほつれて飛び出した髪の毛もあるし、曲がっているし、せっかくの綺麗な髪が台無しだ。

 だというのに、シルは満足そうな、やりきった顔をしている。


「待って、俺がやるから」


 思わずそう言っていた。ちらりと待ち行列の長さを見て、まだしばらく待つことになりそうだと確認して、俺は改めて声をかける。


「三つ編み、するよ」


 シルは俺を見上げて何回か瞬きをして、それから嬉しそうに笑った。


 櫛はルキエーで買ったはずと思ってから、そうかここは日本だっけ、と思い出す。ヘアゴムを外して手櫛を通すと、シルの髪はするりとまっすぐになった。それを三つに分けて編み込む。

 森の飾りオール・アクィトだと、耳の脇のところだけしかやらないし、ちょっと編み方も違うんだけど、でも三つ編みもそんなに難しくなかった。もしかしたらこれは夢だから、それでうまくできているだけかもしれない。

 ただ、シルの髪が長いので、それはちょっと大変だった。行列に動きがあって、三つ編みをしながら前に進む。ある程度の長さまで編み込んだら、もうヘアゴムで止めてしまうことにした。

 ぐるぐるとヘアゴムを巻きつけてぱちんと止めて、シルの髪から手を離す。


「終わった?」

「うん、終わったよ」


 シルが三つ編みを胸の前に持ってきて、途中に止まっているヘアゴムの飾りを見て、嬉しそうに目を細める。そういうところは全然、いつも通り変わらないな、なんて思う。




 そもそも俺は、絶叫マシンはそんなに得意じゃない。当たり前のようにジェットコースターで気分が悪くなった。二人で園内のベンチに座って休む。

 シルは楽しそうにはしゃいでいたし、元気だし、なんならもっと乗りたそうにしているものだから、こんなふうにぐったりしている自分が情けなくなってくる。いつも、こんなことばかりだ。


「ユーヤ、大丈夫?」


 ジュースのカップを持ってぼんやりしていたら、シルが覗き込んでくる。シルの手にはクリームとチョコシロップたっぷりのクレープ。イチゴとバナナの断面も覗いているし、なんならアイスクリームまで入った、とても盛り沢山で贅沢なクレープだ。


「少し休めば大丈夫だから」


 そう言って、シルを安心させるためにちょっと笑って、それからストローを口に加える。柑橘系のにおい。酸味が強い爽やかな味が、気分の悪さを押し流してくれる。そして、ポルカリはもっと酸っぱかったな、なんて思う。

 それでもまだシルが心配そうにしてるので、「クレープのアイス、溶けちゃうよ」と声をかける。それでシルは、クレープに口をつけた。

 辺りにはすでに、クレープ生地の焼ける甘いにおいが漂っている。その上、チョコレートとクリームがとろりと混ざり合ったにおいがすぐ隣にあって、さらに空気を甘くしている。

 シルはクリームをちょっと舐めて、それからクレープ生地に噛み付いて、噛みちぎった。たっぷりとしたクリームとアイス。スライスされたバナナ。白いそれらを汚すようにかかったチョコレートシロップ。

 口いっぱいに頰張って、シルは目を大きく開く。しばらくそのままもぐもぐと口を動かして、飲み込んで、今度は目を細めた。


「美味しい」


 呟くようにそう言って、舌が唇についたクリームを舐める。そして、二口目。

 シルが楽しそうにしてることにほっとして、俺はまたジュースを一口飲む。

 クレープなんて、最後に食べたのいつだったっけと考えた。甘いにおいは思い出せるのに、クリームの、チョコレートシロップの、ぺらりとした薄い生地の、あの味がうまく思い出せない。


 食べ終わったシルの唇の端に、クリームが付いている。何気なく手を伸ばして、指先でそれを拭う。シルはちょっとびっくりしたように俺を見たけど、すぐに嬉しそうに目を細めた。

 それで俺は──どうしたんだっけ。シルの笑った顔しか思い出せない。




 気付けば観覧車の行列の中で、俺はいつもみたいにシルと手を繋いでいた。最初の頃はシルと手を繋ぐのもなんだか気恥ずかしく感じてたのに、随分と慣れてしまったと思う。

 ぼんやりとそんなことを思ってから、ここが日本で、遊園地で、俺とシルは制服姿でいることを思い出す。夢だと思いながらも、俺はすっかり混乱してしまって、もしかしたらあの旅の方が夢だったんじゃないかなんて思ってしまう。

 シルは外国からの転校生で、同じクラスにやってきて──俺はなんで仲良くなったんだっけ。それこそ、アニメか漫画みたいだ。

 二人で観覧車に乗り込んで、ドアが閉まる。ゴンドラは静かに上に向かう。シルが、初めて外に出たときみたいにはしゃいで、窓の外を眺める。


「ねえ、ユーヤ、わたしも飛べるんだよ」


 シルが急に、そんなことを言い出した。さっきまでは窓の外を見ていたのに、今はじっと俺の方を見ている。


「羽を伸ばしたいなって、思うこともあるみたい。また、飛びたいな。高くまで飛べるかな」


 それは、空を飛んだというより、落ちたという方が相応しい経験だったけれど──きっとそれは、シルがずっと閉じ込められていたからで、何度も飛んでいればもっと上手に飛べるようにだってなれるのかもしれない。

 いつの間にか、シルの首に光が巻き付いていた。あの、首輪のような光。腕と足にも。


「わたし、飛べなくても良いよ。この姿のままで大丈夫だよ。それよりも、ユーヤと一緒が良い」


 シルがそう言う度に、シルに巻き付く光の輪っかが増えてゆく。助けなくちゃと思うのに、シルを助けたいのに、どうすれば良いのかわからない。


「俺は……」


 観覧車のゴンドラは登り続ける。いつまでたっても辿り着かない。俺は、両手を伸ばして、シルの手を握る。初めて会ったときみたいに壊れてくれと思ったけど、光の輪っかは増え続けるままで、壊れてくれない。


「俺は、シルを助けたい」


 俺の言葉に、シルは嬉しそうに笑う。俺の夢の中で、シルはずっと笑っている。楽しそうに、嬉しそうに、美味しそうに、そして幸せそうに。


「うん、ユーヤが助けてくれた。嬉しい」

「それだけじゃなくて、シルと一緒にいたい」

「うん、わたしもユーヤと一緒が良い」


 何かを言うほど、シルの体に光の輪っかが増えて──それなのにシルは笑っている。

 いつの間にか俺の手足にも、光の輪っかが巻き付いていた。それで、俺はうまく笑えない。


「あのね、わたしもユーヤを助けたい。ユーヤがわたしを助けてくれるみたいに」


 シルがそう言ったとき、俺を締め付けていた光の輪っかが弾けて、そして──夢から冷めてしまった。




 体がぐらぐらと揺れている。その揺れる体が、後ろからシルの手で支えられていることに気付く。冷え込んだ空気を吸って、ゆっくりと吐き出す。夢の中で感じていた変な焦りが残っているせいで、体が強張こわばっていた。

 タザーヘル・ガニュンの砂漠だ。エーラーナーでの移動中、どうやら少し眠ってしまっていたらしい。エーラーナーでの旅も随分と長いような気がするけど、酔うのはなかなかどうにもならなかった。起きているとどうしても気分が悪い。


「ユーヤ、大丈夫?」


 頭のすぐ近くでシルの声がする。夢の中でも心配されていたな、なんて思い出そうとして、ふわふわとどこかに飛んでいってしまったのか、もう夢の中の出来事が消えかけていることに気付いた。

 もう一度深く息を吐いて、それでようやく体の力が抜ける。


「うん、大丈夫。大丈夫だから」


 もうあまり思い出せないけど、夢の中でシルはたくさん笑っていた気がする。




 この先も、あんなふうに、シルが笑っていられると良いなと思う。美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、シルの欲しいものが増えて──その度にシルは、笑ってくれる。

 それに俺だって、旅の中でたくさん笑ってきた。シルと一緒に、ずっとここまで、旅をしてきた。

 だから、この先もずっと、そんな旅になると良い。


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