第四話 氷の花
宿に戻って、夜になっても、シルはなんだかぼんやりしていた。あの、
日が沈んだらやっぱり空気が寒いくらいになる。建物の中にいるとそれほどでもないけれど、厚手の服を上から羽織る。
シルは寒そうにしたことがないけど、シルの肩にも羽織らせた。
宿屋の人に暖かいジェロのお茶を用意してもらって、部屋に戻って器を一つシルに渡す。ジェロのにおいが湯気と一緒にふわりと立ち上る。
シルは静かに口をつけて、一口、こくりと飲んだ。
俺はバッグから櫛を出して、シルの髪に結んだ
シルは大人しく座ったまま、時々お茶の器に口を付ける。
「終わったよ」
声をかけると、顔を上げないままこくりと頷く。
俺は自分の髪に結んだ
癖がついた前髪を手櫛でかきあげて、俺も椅子に座ってお茶の器を持ち上げた。器がお茶の温度を伝えてきて、指先がじんわりと温まる。
口元に持ってくると、甘酸っぱい花のようなにおいの湯気が顔に当たった。
程よくぬるくなったお茶を口に含めば、においで感じた通りの甘酸っぱさとお茶の渋さを感じる。飲み込むと、暖かなものが自分の体を通ってゆく。
そうやって暖かさがじんわりと広がって、少し力が抜けて、自分の体が結構冷えていたんだな、と気付く。
「あのね」
シルが、器を握り締めたまま、顔を上げた。
「……うん」
返す言葉に少し悩んでから、小さな頷きを返して、シルが話すのを待った。
「歌を……歌ったでしょ」
「雪の歌のこと?」
「うん、そう。あの時にね、見た白い花は、雪だったんだって、思い出した。それに、氷も」
どこかぼんやりした表情のまま、シルは話す。その言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「あの時?」
「うん。歌をね、歌ってもらった。真似して歌った。これが、白い花だよって……目の前で花が広がってくのを見た。あれが雪だったって、思い出して気付いた」
これはシルの記憶なのかと気付く。シルはきっと、自分の記憶をそのまま言葉にしている。シルには見えているその光景が、俺にはわからない。言葉をつなぎ合わせて想像することしかできない。
でも、きっとそれは、殻を破った時に隣にいたという、ドラゴンのことなんだろうと思った。
「それから、氷も見せてくれた。氷の塊がだんだん大きくなって……花の形になった。わたし、それも真似した。氷、作れるんだよ、わたしも」
そう言って、シルはお茶の器を両手で持ち上げる。中に半分ほど残っているお茶の表面が震えたかと思うと、そこから水が一筋伸び上がった。
水は凍りつきながら、するりと、蔦が伸びるように上に向かってゆく。そして、その先端に蕾のような塊ができて、そこから六枚の花弁が広がった。
お茶の赤い色がそのまま凍って、ほんのりと色付いた氷の花がそこに咲いていた。
揺れる灯りが、その透き通った花を通ってきらめく。
「さっきのは、ドラゴンの骨なんだよね? 氷がいっぱいあったのは、ドラゴンがいたから?」
赤い花が大きくなって、そしてそれを支えていた茎がぱきんと折れた。氷の花が、テーブルに落ちて砕け散る。
砕け散った氷は、落ちた先でじんわりと溶けて水になってゆく。
シルの疑問の答えは、俺にもわからない。
でも──シルは今、目の前でお茶を凍らせてみせた。それがなんなのか、魔法みたいなものなのか、俺にはわからないけど、ラハル・クビーラや氷に囲まれるドラゴンの骨と近しい何かなのではと、想像するにはじゅうぶんな光景だった。
俺は、お茶の器を両手で抱えるように持つ。まだ、ほんのりと熱が残っている。
「俺も……俺にも、わからないことだらけだけど」
残っているわずかな熱を逃したくなくて、お茶を飲んだ。だいぶ冷めてしまっているけど、まだ冷たいってほどじゃない。
お茶を飲みきって、顔を上げる。渋みが舌に残った。
「多分、さっきのは、ドラゴンの骨だと思う。氷とか、氷みたいな石とか、それとドラゴンの関係はわからない。けど、ここの人たちは、ドラゴンと関係しているって考えてるみたい」
シルは瞬きをすると、手に持っていた器をテーブルに置いて、そのまま少し目を伏せた。テーブルの上には、砕け散った氷が転々と、小さな水たまりを作っていた。
「わたしね、さっきの場所で思い出した。歌を真似して、氷も真似して……だから、あの骨はドラゴンなんだって、思った。どうしてかは、全然わからないけど。でも、きっと、そう」
シルは俺とは違って、理屈や想像とは違ったところで、それを感じたみたいだった。もしかしたら、ドラゴンだから──シルだからわかる何かがあるのかもしれない。
シルの指先が、テーブルの上に飛び散っているお茶にそっと触れる。その指先を持ち上げると、その通り道にきらきらと細かな氷の粒が舞った。
それを見ながら、シルが言う。
「ドラゴンて、ほかにもいるのかな」
「ほかに?」
「うん。あの骨以外に」
氷の粒が、灯りが揺らめくのに合わせてきらきらと赤く輝いている。シルはそれがはらはらと落ちてゆくのを目で追ってから、俺の方を見た。
頷くことができれば良いのにと思いながら、俺は首を振った。
「俺にはわからない。シルがここにいるんだから、ほかにもいたっておかしくないって思ってる。それに、いたら良いなって、俺は思ってるよ。でも……わからない」
こういう時に「きっといるよ」と言い切ってしまえたら良かったのに、と思う。
シルは、ちょっと考えるように首を傾けた。
「そっか……わたしもドラゴンなんだよね」
シルの髪の毛が、さっきの氷と同じように、灯りの揺らめきをほのかに赤く反射している。シルの白い頬も、ほんのりと赤く照らされて見える。
「今日、あの骨を見て、それで……もし、ほかにドラゴンがいるなら、会ってみたいって思った」
シルの視線に、小さく笑って頷いてみせる。
「うん、探しに行こう」
俺の言葉に、シルも頷いた。
シルは、ようやく自分で旅の目的を見付けたんだと思う。
俺は今まで通り、シルと一緒にドラゴンを探すだけ。これまでと何かが変わるわけじゃない。
だというのに、頭の片隅で「見付からないかも」と思うことを止められない。それに、そのさらに端っこに、ほんの少しだけ「このまま見付からなければ良いのに」という気持ちもあった。
このまま見付からなければ、ずっと、旅を続けていられるのだから。
お茶はもうなくて、俺はその気持ちを飲み込むことができなかった。
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