第三話 タフル・クビーラのルハル・ナー

 日はすっかり沈んで、辺りは暗い。

 揺れる灯りに浮かび上がるのは輪郭ばかりだけれど、どこも賑やかにざわめていていて、なんだかお祭りの日を思い出す。


 褐色の肌と黒い髪は、この辺りの人らしい。そうじゃない人たちも多くて、それは船で別のところから来た人たちみたいだった。

 知らない言葉も多いけど、たまにオージャ語の知っている言葉が耳に飛び込んでくる。

 俺たちみたいな、明らかに外から来たとわかる人には、最初からオージャ語で話しかけてくる。話しかけてくる人も、オージャ語がネイティブじゃないからだろうけど、大抵は単語か決まったフレーズばかりで、聞き取りは楽だった。

 そして、聞こえてくる大抵の声は「食事ケンマ」「美味しいノスティ」「良いカロ」、他は値段の数字──つまり、ほとんどが宣伝文句だった。




 何かが焼けるにおいがすると思ったら、煙が目に沁みて、じんわりと涙が滲んできた。

 シルがぱちぱちと瞬きをして、鼻を少し持ち上げて、不思議そうな顔ですんすんとにおいをたどろうとする。

 辺りを見回しても、その煙を気にしている様子の人はいなかった。それなら、これは心配のいらないものなんだろうか。

 そのにおいは、刺激が強くて──スパイスなんかを思い出すようなにおいで──目に痛い。


「美味しそうなにおいがする」


 シルがはしゃいだ声を上げる。なんとなく嫌な予感がしていたけれど、シルに引っ張られるままに、その煙の出どころへと向かっていった。




 建物の前で火を起こして、そこに串に刺さった肉を並べていた。その火に炙られた真っ赤な色、鼻の粘膜を刺激するにおい、目に沁みる煙。

 どう考えてもこれはからい食べ物だ。そんな気はしていたけれど。


美味しいノスティ・エナ!」


 お姉さんが、串を焼きながら声を掛けてくる。「美味しいノスティ」に「一つの」という意味の「エナ」を付けてるのはどういう意味なんだ。宣伝文句だと思うので「すごく美味しい」とかそういう意味だとは思うけど。

 シルが期待に満ちた目で俺を見る。


「美味しそうなにおい。あれ、お肉? 美味しそう」

「食べたいの?」


 辺りが暗いからか、シルの瞳孔は膨み気味だ。俺は何度も瞬きをして──煙が目に痛い──焼かれている肉にたっぷりと塗られている赤い液体──火のせいで赤く見えているだけかもしれないけど──を見る。その赤い液体がぽたりと落ちる度に、じゅわっと煙が立ち上る。

 その煙も火に照らされて赤く見えて、俺はまた瞬きをしてシルを見た。


「あれ、すごくからいと思うけど、大丈夫?」

「からい……」


 シルは、不思議そうに瞬いた。


「何かダメなの?」

「辛いものを食べると、痛かったりする、かも」

「いたい……」


 シルは首を傾けて考える。銀色の髪の毛はさらさらと涼しげで、青い瞳は氷のようで、肌は透き通るように白くて、辛いものなんか食べたら溶けてしまいそうに見える。

 意外となんでも食べることを、俺はもう知ってはいるけど。それでも、限度というものはあるだろう。


「わからないけど、きっと大丈夫。食べたい」


 これまでだって、スパイシーな料理はあった。ルキエーにだって、トウム・ウル・ネイにだって。でも、それはあくまでスパイシー程度であって、ここまで明確に「からそう」ではなかったような気がする。

 本当に大丈夫だろうかと思いつつ、シルの期待に満ちた瞳に負けて、俺はお姉さんに「買うクィスタ」と伝えた。

 お姉さんは、俺とシルを見比べて、朗らかに笑う。


二つ?ド・ゼ

一つエナ!」


 二つ買っても食べきれる気がしない。

 俺は辛いものが苦手というほどではないけど、得意でもない。市販のカレールーであれば中辛を好んで食べるけど、甘口や辛口でも食べられなくはない、激辛は食べない。

 普通くらいというか、一般的というか、並くらいだと思っている──けど、目の前のそれは、普通の範囲を超えているような気がする。


美味しいノスティ出るエスタフォコ


 お姉さんがそう言って、串を一本渡してくれる。「美味しいノスティ」に続く言葉が「火が出るエスタ・フォコ」──「火が出る」は、ここでも辛いことの例えなんだろうか。

 串を持った指先が、すでに痛い気がする。


 シルにその串焼きを渡すと、シルは何度も瞬きをした。


「すごい。鼻の奥が痛いみたい」

「辛いものは痛覚を刺激するらしいから、実際に痛いんだと思うけど」


 シルは勢いよく肉の塊を口にくわえた。その瞬間、瞳孔がぶわっと広がったのが暗い中でもわかった。そのまま串から肉を引き抜いて、その肉の塊を咀嚼する。


「んん……!」


 シルが何か言いたそうに興奮しているけど、口は咀嚼に忙しい。辛すぎたのではと心配して、俺は肩掛けのバッグから水筒を出す。


「大丈夫? 食べられなかったら吐き出して」


 シルは首を振った。瞳が潤んで、唇が赤い。

 俺がはらはらしている前で、もぐもぐと口を動かしていたシルだったけれど、やがて少しだけ顎を上げて肉を飲み込んだ。白くて細い喉が動くのが見える。

 シルは串を持っているのと反対の手で、胸を押さえた。そしてその手をお腹まで下げて、それを見下ろす。


「お腹の中が熱い」


 シルはほうっと息を吐いて、そして俺に串を差し出してきた。


「はい、ユーヤも!」

「え……」


 思わず受け取ってしまって、改めてその肉を眺める。

 シルは代わりに俺の手から水筒を受け取って、水を飲んだ。水を飲んでもまだ熱いとはしゃぐ。


 正直、食べるつもりはなかった。食べなくても明らかにヤバイとわかる。けれど、痛いにおいに混ざる肉の焼けたにおいに、食欲と好奇心が刺激されてしまったのも事実だ。

 シルだって平気そうにしているんだし、せっかくだからと思い切って、でも恐る恐る、俺は肉の端っこを少しだけ前歯の先で噛み切った。その瞬間、ひどく後悔した。

 肉は美味しい、と思う、多分。唇が、口の中が、舌が、ひりひりと痛んで、よくわからない。多分スパイスと肉の味が絡んだ複雑な旨味があるような気がするけど、何もわからない。

 吐き出すのは嫌で、なんとか飲み込んだけど咳き込んでしまう。ひりひりしたものが喉を通ってゆく。喉が痛い。胃の中に痛いものが浮いてる気がする。

 額にぶわっと汗が滲んだ。唾液も咳き込みも止まらずに、慌ててバッグからハンカチを出して口元を押さえる。


「ごめん、俺にはからすぎる」

「そうなの……?」


 串を返すと、シルはきょとんとした顔でそれを受け取った。むしろシルはなんで平気なんだ。




 どうやら「ルハル・ナー」というのが、その串焼きの名前みたいだ。「ナー」というのが「火」の意味だというのは、後から知った。

 なんの肉だろうと思って、「ゼレ?」と聞いてみた。何気なく聞いただけのつもりだったけど、俺の聞きたいことはお姉さんになかなか通じなかった。

 何回目かでようやく通じて、「アー」と言って見せてくれたのは、手のひらよりも大きいトカゲだった。


「タフル・クビーラ」


 それは多分、そのトカゲの名前だと思う。タフル・クビーラという名前のトカゲの串焼きが、ルハル・ナー。


「クビーラ……ンー……ドラゴンラーゴ


 お姉さんが言った言葉があまりに思いがけなくて、俺は少しの間、ぽかんとしていたと思う。

 まさか、ドラゴンラーゴという言葉をこんなところで聞くとは思わなかったから。

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