第五話 夜の雨と別れの気配
オール・ディエンの近くには、いくつか村がある。お世話になっているのは、その中でも一番オール・ディエンに近い村らしい。
オール・ディエンの湖岸から少し歩くと、急な上り坂がある。階段が作られていて、それを登ると、また森だ。
そこからすぐ近いところに、壁に掘られた狭い階段がある。踏み板──木じゃないし掘ってあるから板とは言わないか──の部分がとにかくぎりぎりの大きさで、最初に見た時は窪んでるなくらいにか思ってなかったし、階段だと気付かなかった。
だって、足の裏の半分も置けない幅だ。爪先しか乗せられない。壁に掘られているだけで手摺りもないから、何かあれば落ちてしまう。
それが、かなり高い位置まで続いている。あれの上から落ちたら無事で済まないんじゃないだろうか。
最初にその階段を登るように促されたときには、思わず日本語で「無理!」って言ってしまった。
ラーロウは「無理」の意味を聞きたがった。
しばらく悩んだ末に「
怖がっている俺を見て、村の子供がちょっと生意気そうな、自慢げな顔で登ってゆく。それを見送っていたら、ラーロウの手が俺の背中を軽く叩く。笑いながら、なだめるように。
シルには心配されて「わたしが運ぶ」と言われて、それはさすがに断った。
時間はかかったけれど、きちんと自分の足で登りきった。落ちなくて良かった。
そうやって登った先には、また階段──今度はさっきより登りやすい──があって、それをさらに登って行ったら、天井がなかった。
正確に言えば、登った先には天井があったし、そのまま洞窟の中に村が広がっていた。でも、ふと壁の一部が切り取られていることに気付いた。その向こうに外の景色があって、その木々の向こうに空があった。
空を見るのは久し振りで、窓枠の石に手を置いて、森の梢の隙間から見える夕暮れの空をぽかんと眺めてしまった。
夕日は木々の向こうで見えないけれど、森の輪郭がオレンジ色だ。藍色の空に流れる雲は、夕日の色を映して赤い。
そうやって見ている間に、雲の形も色合いも変わっていって、空の藍色がどんどん濃くなってゆく。その藍色を覆い隠すように、雲が厚くなってゆく。
ルキエーの森は、昼間は明るいし、夜も暗くなるし、天井も高いので、そこが外じゃないということを忘れていた。今まで洞窟の中だったんだと、その空を見て思い出した。
最後に空を見たのはいつだったか。オール・ディエンまでの道中で空の下を歩いたこともあったけれど、ここしばらくはずっと洞窟の中だった。
空が見えないことにすっかり慣れていたんだなと、空を見て気付いた。
厚さを増した雲は、日が沈んでから雨を降らせ始めた。
森──洞窟の中では、時折天井から水が落ちてくることがあった。岩に浸みた水が雨のように降ってくる箇所があるのだそうだ。それに、外で雲が厚い──日が出ていないときには、森の中も薄暗くなる。
今は、窓のすぐ向こうが外なので、雨の気配が近い。絶え間なく木々や岩肌を叩く雨音、湿った空気のにおい、全てが直接脳みそに届くみたいだ。
雨を感じながら、夕飯を食べる。
スープとクメェ。スープには、ドゥールッシュという魚と、ユイスという豆、それから何か草のようなものが入っている。
クメェをちぎってスープに浸すと、もちっとした生地がスープを吸い込んでふっくらとする。
ぽたりと零れ落ちそうに膨らんだクメェを口に含むと、じゅわっと口の中にスープが溢れてくる。クメェのしっかりとした生地は水分を吸い込んでも歯ごたえが残って、噛むとじゅっじゅっとスープが浸み出る。溢れるスープを喉に流し込みながらクメェを噛むのが、美味しい。
そんなに凝った料理ではない、素朴な味が、雨の日には似合ってる気がする。量もたっぷりで、満足した。
そして、食後にはアッカ。
「
一杯目を飲み終えて二杯目を鍋から注いでいたら、ラーロウがそんなことを言い出した。
地図を見ながら、この先の道のりを話すつもりなんだろう。
「
ラーロウに軽く応じてから、シルの方を見る。シルの持っている器も、ほとんど空っぽだった。
「シルももう一杯飲む?」
「飲みたい」
俺の問い掛けに、シルは自分の器を差し出してくる。自分の器を置いて、シルの器を受け取って、それにアッカを注ぐとシルに返す。シルは目を細めてそれを受け取った。
シルがアッカに口を付けて、嬉しそうな顔をするのを見てから、俺は脇のバッグを引き寄せて、覗き込んで手を突っ込む。この辺りの地図──ルキエーに来てから買ったものを取り出して、ラーロウに渡す。
ラーロウは地図を広げると、一点を指差した。
この地図は、内海の下側──東西南北がわからないので、便宜的に下──を中心に書いた地図だ。
つまり、ルキエーを中心にした地図。
内海に向かう川が、二つ描かれている。海が狭くなっているところに一つ。そこから奥──地図の右側に進んだところに、より大きな川がもう一つ。
その奥の川を遡ってゆくと、枝分かれして、さらにその先に大きな湖。ラーロウの指はそこを示していた。
「オール・ディエン……
わかった、というつもりで頷いてから、慌てて声で返事をする。
「
ラーロウは頷くという仕草を知らなかった。仕草もいくつか教え合ったりしたけれど、咄嗟にはどうしても頷いてしまう。今はラーロウも「頷く」意味を知っているけど、仕草だけで伝わることは期待しない方が良いのだろうなと思っている。
ちなみに、ルキエーの人は「わかった」という時は、胸を手で叩くそうだ。食事前の挨拶で胸に手を当てるのと、ちょっと似ている。
肯定のジェスチャーは拳を握って持ち上げる。使い分けは、うまく言語化できない。自分でもなんとなく使い分けているように思うけど、難しい。
アッカを一口すすって、ラーロウの次の言葉を待つ。
煮出す時間が長かったのか、今日のアッカはやけに苦い。ソトゥの口当たりがふんわりと包むその苦味には、だいぶ慣れたつもりだったのだけれど。
オール・ディエンから地図上で右に行った先。ラーロウの指が、クジラのような絵が書かれた場所を指す。
これから行く場所はそこ。
ラーロウの指が少し左に戻った。川が大きく曲がっている。
「
ラーロウは、ルキエーの言葉でそれを伝えてくれた。ヴェダギュレという言葉の意味はわからなかったけれど、ラーロウが連れて行ってくれるのはそこまでということだ、きっと。
ルキエーに来てから、ラーロウとはずっと一緒に過ごしていた。この先のことはあまり気にしていなかったし、だからラーロウと別れることも、考えていなかった。
でも、考えたら当たり前だ。ラーロウにだって、この国での生活があるはずで、俺とシルの旅に付いてきてくれているのも、俺がお金を払って雇っているからだ。この国の外までは、仕事の範囲外なんだろう。
俺は、アッカの入った器を左手に持ち替えて、右手のひらで自分の胸を軽く叩いた。
「
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