第三話 異世界でもお腹は空く

 ここが異世界だと実感して、不意に高校生だった自分のことを思い出した。

 ここまで、あまり思い出すことはなかったんだけど、もしかしたら考えないようにしていたのかもしれない。


 家族とか、クラスメイトとか、友人とのやりとりとか、些細な記憶を思い出して、そして喪失感に襲われる。

 今の自分にとっては、ここでこうしてシルと二人旅をしていることの方が実感のあることで、高校生として暮らしていたことが、なんだか随分と遠い──現実感の薄いもののように思える。

 よくは思い出せない、けれど確かにそこにあるうっすらとした死の記憶が、それ以前の自分と今の自分の間に、決して通り抜けることができない壁を作っているようだった。

 もう、その壁の向こうには戻れない。そのことが、思ったよりもショックだったのかもしれない。


 ぎゅっと、手を引かれる。考え込んでいたことに気付いて振り向くと、シルが不安そうな目をしていた。


「ユーヤ、また気分悪い?」


 雨と雲の大きな柱を眺めたままぼんやりしていたことに気付いて、俺は首を振ってシルに笑ってみせた。


「大丈夫。すごい光景だなと思って見てただけだよ」


 シルは俺の言葉を信用していないのかもしれない。しばらくじっと俺を見ていた。俺は、シルの心配を吹き飛ばすために、明るい声を出す。


「気分が悪いのが落ち着いてきたし、たくさん歩いたからお腹空いたな。何か食べられるところを探そう。港まで戻らないと難しいかな」


 シルは俺の表情を探るように、瞬きを繰り返して俺を見ている。俺は、大丈夫という気持ちを込めて、頷いた。

 それでようやく、シルも頷いてくれた。




 気分が落ち着いたら急にお腹が空いて、シルが俺のために取っておいてくれた焼き菓子を食べた。シルの前で一人で食べるのが落ち着かなくて、半分に割ってシルと二人で分けた。

 保存のためか硬く焼かれていて、ずっしりとしている。見た目はカロリーメイトみたいな感じだ。塩気と甘味が適度にあるけど、味は普通としか言いようがない。普通に食べられる。こういう評価は、もしかしたら贅沢なんだろうか。


 そして、それだけでは、まだ空腹は満たされない。階段を登って降りてまた登ってきたけれど、その道を戻る。

 二人で手を繋いで階段を降りる。手を繋ぐのが気恥ずかしい気持ちはあるけれど、もうなんとなく習慣のようになってしまっている。

 二つの川の街フィウ・ド・チタで知らずに買ったお揃いの恋人の石カルコ・メ・アメティを身に着けて手を繋いで歩くのは意識すると気恥ずかしいけれど、シルはそんなことを何も気にせずに手を握ってくるし、シルも俺も世の中を知らないので物珍しさからキョロキョロすることは多いし、はぐれないためには大事なのだと自分に言い聞かせる。




 ところで、この世界での生活にもだいぶ慣れたと思う。宿屋にも泊まれるようになったし、レストランにだって入れるようになった。

 とは言っても、入ってまず店の人にいつもの呪文「ココ少しだけポケ言葉パーレ」を唱えて、あとは説明してもらっているだけだ。相手が困ったり、忙しそうならお礼だけ言って出ていく。

 割と親切な人は多くて、近くにいる人が助けてくれることもある。

 それを繰り返しているうちに、だんだん慣れてきた。親切な人が多くて良かった。


 その店で食べることにしたのは、そんなちょっとした自信からだ。それと、階段を登って漂ってくるにおいと、賑やかな声のせい。

 枝分かれした細い階段のさらに先から、美味しそうなにおいが漂ってくる。枝分かれの先に少し進んで見下ろせば、見晴らしの良さそうなところにテーブルと椅子が並んで、そこでご飯を食べている人たちがいた。

 最初は店なのか民家なのかはっきりしなかったけれど、テーブルを立つ人がコインを渡していたので、きっと店だろうと思った。


 シルを見れば、彼女はにおいに釣られて、その店の様子をじっと見ている。


「あそこで、食べてみる?」


 そう聞けば、俺を見上げてこくこくと何度も頷いた。




 店に入って、いつものように「ココ少しだけポケ言葉パーレ」と呪文を唱える。お店の人に「食事ですか?ケンマ・ゼ」と聞かれて「はいネェ」と答える。

 お店の人は、愛想良く、俺とシルをテラス席に案内してくれた。さっき、階段の途中から見えた場所だ。

 相席になったおじいさんは、俺とシルの繋がれた手を見て、それから胸元の涙の石カルコ・メ・ラクのペンダントを見て、目を細めた。俺は恥ずかしくて、胸元のペンダントを隠すように握る。


 この座席からは、海がよく見える。風と波の音が混ざり合って、海も空も青くて、ぽっかりと海の上に飛び出してしまったような気分になる。

 気分の悪い時には生臭く感じていた潮風も、今は気持ち良く感じる。塩分が肌に少しぴりぴりとするけど。


 ちょうど昼時だったのかもしれない。周囲のテーブルは全部埋まっている。

 おじいさんは、お酒を飲んでいるらしい。アルコールで赤くなった顔で、陽気に、話しかけてくる。友好的に話しかけられているのだとは思うけれど、うまく聞き取れなくて、俺はまた「ココ少しだけポケ言葉パーレ」と呪文を唱えることになった。

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