第四話 彼女の名前

 パンを食べてお茶を飲んで、それから色々考えたら、頭の中は少し落ち着いた。

 彼女に対しては落ち着かない気持ちがあるにはあるけど、それは別の話なので今は頭から追い出しておく。


 とにかく、このままここでぼんやりしているワケにもいかないだろうと考えた。

 他にできることも思い付かなかったので、部屋の収納を漁って、色々と引っ張り出して床に並べてみた。


 食べ物が見付からない──あるいは、食べても良さそうな物がわからなかった。だから、この部屋に引き篭もって暮らすのは無理だと思った。

 この部屋から出るとしても、まずは山を降りるところからだ。そのための準備をしないといけないとも考えた。




 服は女物も男物もあった。防寒具らしい厚手の上着もあったので、助かる。それに、帽子や手袋も。

 お金のように見えるコインもあった。お金があるのは助かる。人がいれば、これで必要なものが買えるかもしれない。食べ物とか。


 それから、バッグ。肩に斜めがけするタイプの、見た目だけなら俺のリュックの方がまだものが入りそうに見える。そんな大きさ。

 持ち上げると、何かがちょっと入っているような重さだった。ちょっと──ノートが何冊かとか、そのくらいの重さ。

 何が入っているのかと開くと、中には何も見えない。ただ、バッグの裏地の布が見えるだけだ。

 布のバッグに見えるけど、もしかしたら芯でも入っていて頑丈にできているのかもしれない。そう思って、コインが入っている革袋をバッグに入れたら、バッグの中でその革袋が消えてしまった。


 信じられない気持ちで、バッグの中に手を突っ込んで掻き回す。

 お金がないと困る。焦ってそう思った時、バッグの中に革袋の姿が見えた。慌てて掴んで取り出すと、ずっしりとしたコインの重みが手のひらに乗っかる。


 そういえば、コインの重みもバッグに入れている間は感じていなかった。


 つまりは、そういうバッグらしい。

 重さを気にしなくても良い。手元にあったものを色々突っ込んでみたけど、容量も無視できる。全部でどのくらい物が入るのかはわからない。

 取り出したいと思えば、取り出せる。信じられないくらいに便利だ。




 地図もあった。


 ゴワゴワした茶色い紙に、細かな線が引かれている。

 左上から右下に伸びる大地。左上の方に山のような形が描かれていて、そこにバツ印。陸地に大きく入り込んだ海、その中の島の一つにもバツ印。

 そんな感じで、地図上のいくつかの場所にバツ印が書かれていた。


 今のこの場所が、この地図上でどこなのかがわかれば、もうちょっと助かるんだけど。そもそも、この辺りの地図だという保証もない。

 それでも、多分、今のこの状況で情報は貴重だ。




 何か書かれている紙の束も見付けた。

 俺には何も読めない文字だ。彼女に見せたけど、彼女も文字は読めないと言う。


 何枚かめくっているうちに、模様が描かれているのを見付けた。彼女の左胸で光っていたのと同じような複雑な模様。

 その線を指先でなぞってから、もしかしたらいつか読めるかもしれないと思って、持っていくことにした。


 そもそも、このバッグがあれば、荷物の多さや重さは気にする必要はない。

 使い道のよくわからないものもあったけれど、バッグにはいくらでも入ったので、入れられるものは持っていくことにした。


 それでもさすがに、棚までは持っていかない。




 俺がバッグの中に物を放り込む様子を、彼女は興味深そうに見ていた。

 ふと手を止めて彼女を見ると、彼女も俺を見た。好奇心に輝く青い瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。


「俺は、ここを出てどこかに行くつもり」

「どこへ?」

「わからない。ここがどこかもわからないし、どこに行けるのかも」


 俺の答えに、彼女は首を傾けた。さらりと、彼女の銀髪が揺れて顔にかかる。


 彼女は、首輪のせいで動けなかったと言っていた。でも、今はその首輪がなくて、だったら自由に動けるはずだ。

 さっきも外で、ちっとも寒そうにしていなかったし、もともとドラゴンなのだから雪山の中だって生きていけるのかもしれない。


「俺は行くけど、君は……」


 俺と一緒に行く? という問い掛けが口から出てこなかった。

 なんのアテもないのに、連れ出して良いものだろうか。それとも、彼女を置いて出ていくことの方が酷いことなのか。俺には判断がつかなくて、どう声をかけて良いかがわからなくなってしまう。


「わたし……」


 ドラゴンの少女が、口を開く。彼女の手が伸びてきて、俺の服を掴んだ。


「わたし、ずっとここで待ってた。誰も来なくて、ずっと待ってた。あなたがきて、助けるって言ってくれた。だから、置いていかないで。助けて」


 俺の腕の中に飛び込んできた彼女は、至近距離で俺を見上げている。眉を寄せて、必死な表情で、俺を逃すまいと。

 俺があの時「助ける」と言ったから、彼女は俺を求めている。そのことに少しの不安を感じながらも、俺はほっとしていた。


 置いていく罪悪感に耐えられそうになかったし、一人きりでどこかに行ける気もしなかった。

 本当は、彼女の方から言い出してくれたことに安堵もしていた。情けない話だけど。


「俺は……一緒に来てもらえると嬉しい……こっちこそ助かる、助かります」


 小さな声でゴニョゴニョと言う俺の言葉を聞いて、彼女はそのまま俺に抱きついてきた。


「一緒に行く!」

「ふゃぃ!」


 彼女の柔らかくてしなやかな体を受け止めて、俺は変な声を出してしまった。




 彼女には、名前がなかった。


 例えば、最初の頃に一緒にいたドラゴンや、出入りしていたという人からは呼ばれていなかったのだろうか。

 そんな疑問を口にしたけれど、彼女は困ったように首を傾けた。


「名前、呼ばれたことがない。それに、人の言葉は、わからなかった」


 彼女は、誰の言葉でもわかる訳ではないらしい。なんで俺の言葉が伝わっているんだろうか。


「俺は、優也」

「ユーヤ?」

「そう、優也」


 自分の名前を伝えると、彼女はコクリと頷いた。

 彼女から聞こえるハミングのような音の連なりの中に「ユーヤ」という音が聞き取れて、そこだけは音と意味が一致して聞こえて、そのことにひどく安心した。


 彼女にも名前が必要だ。名前がないのは不便だから好きな名前を名乗ったら、と提案する。でも、彼女はよくわからないという顔をした。

 結局、俺が名前を付けることになった。


 とても安直だと自分でも思うけど、「シルバー」という単語しか思い付かなかった。銀色のドラゴン。銀髪の少女。


「シル」

「シル? それが名前?」

「どう、かな……?」


 安直すぎるかなと思って、そっと様子を伺う。


「シル。わたしの名前、シル。あなたはユーヤ、わたしはシル」


 彼女はしばらく口の中でお互いの名前を呟いて、やがて満足そうに頷いた。


 その時、彼女のブラウスの布地の隙間から光が漏れ出していることに気付く。左胸、あの模様が描かれていた辺り。

 俺の白いシャツの下も光っていた。ちょうど、左胸の心臓がある辺り。


 ボタンを外してシャツの中を覗き込むと、俺の左胸にも彼女のと同じような模様が描かれているのが見えた。そして、それが金色に光っている。

 痛かったりはしない。ただ、そこにあって、光っているだけ。


 光はすぐに収まって、俺と彼女は顔を見合わせた。何が起こっているのか、俺にも彼女にも何もわからなかった。

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