第三話 クリームパンは不健全
彼女も、ここがどこか知らないらしい。
そもそも彼女は、卵の殻を破ったその時にはすでにここにいたのだと言った。
彼女が殻を破った時に、隣にもう一体のドラゴン──彼女の言葉は曖昧だけど、多分──がいた。そのドラゴンがいくつかのことを教えてくれた。けれど、気付いたらいなくなっていた。
その頃、この部屋には人が出入りしていた。その人が、卵の殻を破った彼女に首輪を付けた。部屋に色々な物を置いていった。
気付けばその人も来なくなった。
それがどのくらい前のことなのか、彼女はよくわかっていないようだった。だから、俺にもわからない。
それから、彼女は自分で首輪が外せなくて、首輪を外してくれる人が来るまで、ここでずっと待っていた。
そして、俺が来た。そして、首輪が外れた。
二人で、扉を開けて先の様子を見に行った。
扉の向こうには上り階段があって、それを上がった先にはまた扉。それを開けると、雄大な大自然があった。
足元には雪がある。吐く息が白い。空気の冷たさに、喉の奥がきゅっとする。
見渡せば、山並みが一望できる。
生まれて初めて外を見たらしい彼女が、興奮で頬を赤く染めて「すごいすごい」とはしゃいでいる。
ここがどこか、見てもよくわからなかったし、制服だけだと寒いし、雪が積もっている中だとスニーカーもすぐに駄目になりそうだし、俺は彼女に一度中に戻ることを伝える。
薄着に見える彼女は寒くないのだろうかと心配になったけれど、彼女はちっとも気にしていなかった。ドラゴンは寒さに強いのだろうか。
「俺は寒いから戻るけど、寒くないなら見てても良いから」
俺の言葉に、彼女は首を振って俺に付いてきた。
リュックからコンビニで買ったパンを取り出した。とりあえず、何か食べたら落ち着くこともできるかと思った。
ベーコンチーズパンの袋を開けると、彼女がすんと鼻先を動かして、それから俺の手元をじっと見る。
もともと、分けるつもりではあった。この状況で、自分だけ何かを食べるほど、図太くはない。
「……食べる?」
それでも形式上、一応聞いてみた。彼女は勢いよく何度も頷いた。よほど食べたいんだなと思って、パンを半分にちぎって、渡す。
彼女は両手でパンを受け取ると、まず鼻を近付けて入念ににおいを確認する。それから、俺をじっと見る。
俺が一口齧るのを見て、同じようにパンをくわえて噛みちぎる。そのまま飲み込むつもりだったのか顎を持ち上げて、でもうまく飲み込めなかったのかまた顔を正面に戻して、俺の口元を見てからもぐもぐと口を動かし始めた。
そうやって咀嚼しているうちに、彼女の縦に細長い瞳孔が膨らんで丸くなってゆく。そして、キラキラと瞳を輝かせて、もう一度顎を持ち上げて、今度こそ口の中のものを飲み込んだ。
「これ、良い。嬉しい。ありがとう」
彼女はそう言って、またその動作を繰り返す。
クリームパンも半分に分けたけれど、チョイスとしては失敗だった気がした。
とろりとしたクリームは甘かったし、パンもふかふかで美味しい。でも、問題はそこじゃない。
クリームが、溢れるのだ。
手についたクリームを舌を伸ばして舐める彼女の姿は、とても不健全だと思った。唇の端にクリームが付いているのも。
「これ、良い。あなたのくれるもの、好き。気持ち良い」
俺も一口だけは食べたけれど、その頃にはすっかり食べるどころじゃなくなっていて、クリームパンの残りも、はしゃいでいる彼女にあげてしまった。
俺が差し出したクリームパンを、彼女は嬉しそうに受け取って、そしてそれから俺の指に落ちたクリームを舐めた。
彼女の唇が俺の指をくわえて、その感触の柔らかさに、俺は体を硬くする。
俺の指に付いたクリームをぬるりと奪って、彼女は俺の指から唇を離した。
何事もなかったかのように、彼女はクリームパンを食べ始める。
俺はそれでもまだ、固まっていた。
ペットボトルのお茶を飲んで、気持ちを落ち着かせる。
これも彼女が興味を示していたので、半分くらい飲んで、残りを彼女に渡した。
俺の真似をして飲もうとして、大きく傾けすぎてお茶をこぼす。慌ててハンカチを出して顎や首回りを拭いてやる。胸元はためらって、それ以上は拭かなかった。
見た目を除けばやっていることは子供か子犬なのだけれど、見た目だけなら同い年くらいの美少女なので本当に困る。
一度失敗してからは、彼女は器用に少しずつ飲むことができるようになった。
その様子をぼんやり眺めながら、俺は自分のことを考える。
なんでこんなことになっているのか、さっぱりわからない。
いつもみたいに家に帰って、親が用意してくれたご飯を食べて、だらっと宿題でもやって、動画でも見ながら友達とメッセージのやりとりをして──それが当たり前だったのに、と思う。
そして、記憶の端にかすかに痛みと苦しさを思い出す。それはすごくぼんやりとしていたけれど、多分死の記憶だ。
帰りたい気持ちはある。でも、自分の中にぽっかりと喪失感があって、その穴はもう戻らないのだと気付いてしまう。きっと、俺はもう元のようには戻れない。
どうしてここにいるのかは、やっぱりわからない。
もしかしたら、彼女の「助けて」という声に呼ばれたんじゃないかなんて、そう考えるのはあまりにも、なんていうか──出来過ぎな感じがした。まるで漫画みたいだ。
でも、彼女のためにここに来たのだと考えた方が、色々なことを思い悩まなくて済むような気もする。
そんな想いを巡らせながら、俺は彼女を眺めていた。
彼女は、ペットボトルを少しずつ傾けて、こくこくと喉を鳴らしている。
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