32 雪原

 俺とスノウは、キースにより後ろ手に縛られて、雪の降りしきるなか、車に乗せられた。

 車のウィンドウには黒いブラインドが下ろされ、外の様子を窺い知ることは出来ない。ただ、どんどん車が坂を上り、やがて山道に入ったのは、その振動で分かる。それとともに外気温が冷えてきたのだろう、車の中もそれと分かるほど寒くなってきた。


 スノウが、ぶるっ、と震える。スノウはいつかのデパートで買った白いワンピース姿だ。さぞかし寒いだろう。俺はスノウを抱きしめてやりたかったが、手を縛られては、それすら叶わない。すぐ、その肢体の熱が伝わってくるほど、隣にいるのに。


 俺は唇を噛んだ。

 ここまでか、と、思わずを得ない状況下に、今、俺たちはいる。悔しさが脂汗になり額を伝う。こんなに寒いというのに。


 これが、俺ひとりだったら、もう少し悔しさもマシだっただろう。馬鹿げたことに、何もかもを国に裏切られていた俺は、これで、間接的とはいえ殺めてしまったナターシャと、事件に巻き込んで命を落とさせてしまったターニャのもとへ行ける、と半ばやけくそながら、胸の中で十字でも切っていたかもしれぬ。


 だが、俺の隣にはスノウがいる。

 彼女は半分夢のなかにいるような、半分諦めきっているような、ぼんやりとした表情で車に揺られている。

 彼女だけでもなんとか助けたい、そう俺の胸のなかで思いが募る。彼女に雪を見せてやりたかったんだけなんだ、畜生、こんな死に様を迎えさせるために、俺はスノウをあの街から連れ出したんじゃない。共に旅を続けてきたんじゃない。


 勾配の急な坂を上っている感覚がする。車が速度を落とす。やがて車は大きく数度バウンドし、そして、止った。かなりの山の中に着いたな、と俺は察した。


 その予想通り、キースに銃を突きつけられながら、身体を車外に転がされてみれば、そこは山中の雪原であった。

 世界の全てが白い。そうでないのは、俺たちとキース、ただそれだけだ。寒い。身体の芯から凍える寒さが俺の身体を這いずりあがる。スノウはすでにぐったりと目を瞑っており、意識があるのかどうか。

 俺は小声で彼女の名を呼んだ。


「スノウ、大丈夫か」


 するとスノウはうっすらと目を開け、俺に向かって青白い唇で微笑んで見せた。そのときだ、俺は、何か、手に違和感を覚えた。縛られた手に、何か。その違和感の正体を探し当てようと俺は意識を手に集中させる。


 そのとき、それまで黙って俺たちをただ、無感情な瞳で見ていたキースが口を開いた。


「そろそろ、終わりにしよう、イヴァン」


 風が強くなってすでに天候は吹雪の様相だ。軍服姿のキースが、今、この瞬間、どんな表情をしているかも、はっきりとは見て取れない。ただ、銃口をゆっくりと俺たちに向けて、引金を今にも引かんとしているのは、分かる。山の枯木が吹き付ける風雪に、ごごご、と揺れるのが地響きのように聞こえる。


 次の瞬間、閃光がまずは俺の頭めがけて迸った。

 俺は咄嗟に身体を倒して、なんとかそれを避ける。俺の身体は雪に半ば埋まった格好となったが、そのとき、俺は気付いた。手の違和感の正体を。

 その次の瞬間、俺はすかさず、から手をすり抜けさせると、雪を蹴って、キースに躍りかかった。


 キースは、俺の突然の体当たりを躱すことも出来ず、声も出さずに、もんどり打って雪の中に転がった。

 俺は自由になった手で、キースの頭を殴る。その腹を蹴りつける。一発、二発、三発と、渾身の力を込めて。

 呻くキースの手から銃が転がり落ちる。雪原に転がった銃に俺は不自由な手を思いっきり伸ばす。ひんやりとした銃身が指先に触れる感覚があった。


 俺は全身の力を指先に込めて、銃身を掴む。

 そして俺は、おぼつかない身体ながら、できる限りの早さで跳ね起きて、銃を構えて叫んだ。


「キース!」

「形勢逆転だな」


 吹雪の向こうで、雪原に座り込んだキースが、感慨もなく呟く。俺は大きな声で問うた。


「キース、どうしてだ? なぜ、縄をわざと緩むように縛った? お前らしくもないミスだぞ!」

「そうだな、俺らしくないな」


 雪の向こうに見え隠れするキースの顔は無表情だ。俺が奪った銃をその頭に向け構えても、なんの感情もその声からは、見いだすことができない。

 困惑する俺にキースが、淡々と言う。


「俺を撃て、イヴァン」


 その台詞で、俺はやっと奴の魂胆が分かった。


「……キース。お前、わざとか?」

「俺にも良心の呵責ってやつがあってな、イヴァン」


 感情を抑えた彼の口調だったが、そこには自らを、嘲るかのような響きがあった。呆然とする俺の前で、彼はそのままの口ぶりで語を継ぐ。


「正直、俺は大きな戦争犯罪に関わりすぎた。それを逆手にとられ、長く政府の手先だったが、もうそんな生は終わりにしたい。ここでな」


 冷たい雪が横殴りに俺たちふたりに吹き付ける。

 俺は凍える手で、銃を握りしめつつ、唇を震わせて唸った。


「キース、そんな甘えを俺が許すと思うか? お前のしたことは、そんなお前ひとりの償いで済むようなものじゃないだろう!」

「分かっているさ、イヴァン。俺は甘えている。だが、お前を助けたいわけじゃない。言っただろう、俺にも立場があると。俺がお前にられた、ということになれば、政府を裏切ったことにはならない」


 白い息を吐きながらキースは囁く。ちいさいが、覚悟を込めた、明瞭な口ぶりで。


「そうすれば人質になっている家族も、命までは取られないだろう」


 キースの陰鬱な顔が吹雪に揺れる。


「こんな俺にも、最愛の人ディアレストはいるんだ」


 そのグレーの目はどこか遠くを見つめるような静けさだった。

 彼はポケットを弄り、何かを俺の足元に放った。雪の中に音もなく転がった、その青い石に、俺は見覚えがあった。


「スノウが大切にしていた、お前の義眼の指輪だ。この義眼には監視用の追尾装置を仕込んであったが、それはお前が派手に転んだときに壊しちまったから、もう俺には用はないものだ。アクアマリンの指輪の代わりだ。最後までお前を利用させてもらう礼と思え」


 そして、彼は俺の目をまっすぐ見つめて、一語一語を噛みしめるような口調で、はっきりと告げた。


「さぁ、イヴァン、俺を撃て。俺の甘えごと」


 吹雪が激しくなりつつあった。

 俺は、息を整え、かじかむ手で銃を構え直し、キースの胸に銃口の照準を定めた。


 白の世界に白い閃光が迸る。その世界を染めるが如く、キースの胸から鮮血が吹き出す。

 俺の視界は白と赤に彩られた。


 銃を下ろすと同時に、俺は、キースの焦茶色の頭が雪の中にゆっくりと沈んだのを確かめ、そして大きく息を吐いた。

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