24 かつての戦友
俺は真っ暗な空間に立っていた。
ここはどこだろう。星すら見えないから、慣れ親しんだ宇宙でもないのだろうか。
いきなり、地平の先に閃光が見えた。眩しい強いひかりだ。あれは見覚えがある。船が撃墜されたときのひかりだ。
と、いうことは、俺は戦場にいるのだろうか。
そう思っていると、手にしていた小さなテレフォンが、あの地平の先の閃光と同じ強さで輝きだした。
そして、俺はそこにくっきりと黒い文字が浮かび上がるのを見た。
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
スクロールしても、スクロールしても、延々と繰り返される黒い文字で綴られたメッセージの羅列。
止めてくれ、俺は殺しちゃいない!
そう叫ぶと不意に地平がめくれあがった。
同時に、地平の彼方の閃光が俺を包む。
気が付くと俺は白いひかりのなかに倒れている。
いや、これは閃光ではない。これは、もっと透明な白さの。
雪だ。俺は雪の中に倒れている。
だが、不思議なことに冷たさは感じない。むしろ心地良い。
安心して俺は目を瞑った。
すると、今度は脳裏が白いひかりで満たされた。
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
「私を殺さないで」
俺は耐えきれなくなって再び叫んだ。
俺が、お前を殺すわけ、ないじゃないか!
ナターシャ!
だがナターシャの声は途切れない。それに向かって俺はさらに叫ぶ。
「違う! 違う! 違うんだ! ナターシャ!」
声の限りに叫び、手を伸ばす。愛しいその手を抱きとめようと。声の方向へ。
だが、その手を誰かが掴んだ。
俺は手を掴まれた。
反射的にそれに抗おうとすると、さらに腕を、足を掴まれる。たまらず俺は抗議の声を上げた。
「何をするんだ! 離せ!」
「落ち着いて、イヴァン! イヴァン!」
スノウの悲鳴に近い声が耳元で響いて、俺は、かっ、と目を見開いた。
見知らぬ真っ白い天井に、見知った顔の黒髪の少女。俺はその名を呼んだが、舌が上手く回らない。声が掠れて、上手く出ない。
「ス……ノウ」
スノウの泣き顔がぼんやり視界に映る。だが、五感の全てがけだるく、重く、頼りない。それでも、俺は彼女を安心させてやりたい一心で、震える唇をもどかしく動かしてみる。
「ス、ノ……」
そして俺の意識はまた白いひかりのなかに包まれる。
繰り返される真っ暗な空間、光る地平、流れゆくメッセージの羅列。なんとかしてそれに抗おうとすれば、掴まれる腕。そしてスノウが俺を呼ぶ声。後から聞けば、俺はどうやら薬に操られるままに数日それを繰り返したらしい。
あの襲撃から五日後、ようやく体から薬が抜け始め、俺は正気を取り戻した。
「スノウ」
やっと、はっきりした声でそう彼女に声を掛けられたとき、俺の胸の上で彼女は泣き崩れた。
俺はゆっくり腕を彼女の体に伸ばす。いつも以上に震えて上手く動かぬ腕だが、なんとかスノウの肩を抱くことが出来た。小刻みに震えては号泣する彼女の肩を、ぽんぽん、と弱々しく叩く。
なんとも頼りないが、それはそのとき、俺のできる限りのスノウへのメッセージだった。
ごめん。でも安心してくれ、スノウ。俺は生きて、君の傍にいる。
俺の容態の安定を見定めて、船に近隣の星の警備艇が着艦し、麻薬捜査官が事情聴取に現れたのは、それからさらに五日経過した日のことだ。
俺の体からはようやく麻薬が抜け、ベッドに半身を起こせるようになり、スノウとも何とか自由に会話が出来るようになっていた。
スノウは、俺が食事を食えたと言っては涙し、一時間続けてまともに会話が続けられたと言っては泣いた。俺はもうスノウに泣いて欲しくなくて、必死に体調を回復させようと努力したが、それがうまく行けば行くほど、スノウが泣く、という妙なことになっていた。
もちろん、スノウのそれは嬉し涙だということは理解していたが、俺は何よりもスノウの笑顔が見たかった。
それは、俺はスノウのことが好きだからだ。
愛しかった。愛しくてたまらなかった。その存在が。抱きしめてやりたいと心底願った。
俺はこんな情けない立場になって、はじめて、その自分の正直な気持ちを受け止め、噛みしめることができたのだ。
そんな最中に病床にやってきた麻薬捜査官を見て、俺は心底驚いた。
そいつの顔には見覚えがあったのだ。その焦茶色の髪にも、グレーの鋭い眼光にも。
俺はこうして、しばし忘れていた過去の記憶と再び対峙せざるを得なくなった。畜生、この世の中ってのは、全くもって上手く出来ているもんだ、なあ、神様とやら。
「イヴァン、久しぶりだな」
「キース、か?」
「ああ、そのとおりだ。終戦後、職にあぶれて、今は地元のこのヒモナス星域でこれを仕事にしている」
果たして、麻薬捜査官の証である、濃紺の制服を身に纏ったそいつは、三年前まで同じ部隊に属していたキース・レイガンだった。
麻薬売人による俺への襲撃事件の事情聴取は、あっさりと終わった。
何しろ、俺は隠すことは何もなかったし、事件の事実関係もはっきりとしていた。俺がベッドで薬に操られて苦しんでいる頃、俺が死ななかったことを知り、麻薬を飲ませた野郎どもは、慌てて大量のスノードームを抱えて下船を謀ったらしい。しかし、先日の立てこもり事件の通報を受けていたキースたちは、奴らを怪しいと睨み、即座にそこに踏み込んだ。
奴らはのらりくらりと、ただの雑貨屋のふりをして、正体を誤魔化そうとしたようだが、キースらプロの目は、スノードームの中に隠された大量の麻薬を一発で見破った。こうして、あのエセ雑貨屋連中は、お縄となり、ついで、立てこもり事件を起こしたイルクを薬漬けにして利用しようしたことや、俺を襲って薬を飲ませて殺そうとしたことを立て続けに白状したという。
「奴らは、お前を、俺ら麻薬捜査官と勘違いしたそうだ。あまりにもあのスノードームに執着していたから、バレたとばかり思って殺そうとした、との供述だ。災難だったな」
「とんだ迷惑だな」
俺はただ、スノウが喜びそうな贈り物を探していただけなのに、それが麻薬捜査に見えたとは。
人間、後ろ暗いことがあると、何もかもを疑いたくなるものなのだろうが、まったくもって間抜けな奴らだ。こうして無事生還したから良いものの、勘違いで殺されては、たまらない。過ぎてしまえば笑い話ですむような事件なのだろうが、まだ、今の俺には麻薬の中毒症状のいやらしさが身に染みついていて、笑い飛ばすことも出来やしない。
「ところでだ」
事件の話が一段落して、キースは改めて俺に向かい合った。彼は俺に話し掛ける。それまでと調子を一変させた、小声で。
「お前は、終戦直後、ことに家族の記憶を失っているそうだな」
俺は眉をひそめた。話題が自分の話になるとは思っていなかったからだ。
「なぜそれを知っている?」
「医者から聞いたのさ。あの
俺は、びくり、とした。キースはスノウのことを「連れ」と表現した。つまり、周囲に誤魔化しているように彼女が「妻」ではないことをキースは知っている。
「キース、お前はどうして、彼女が俺の妻でないと、分かったんだ?」
「それは、おいおい話す。まずはお前の記憶の話からだ」
キースの目は真剣だった。俺は少し迷ったが、その射貫くような視線と、戦友としての友誼から、自分の記憶の謎にまつわる話を、ざっと打ち明けることにした。
家族の記憶がないこと。妻のこと。アンナに言われたこと。発作のこと。学童疎開船の事故のこと。そして俺が殺した、かも、しれないナターシャのこと。そしてそれらの記憶全てが曖昧であることを。
キースは腕組みをしながら俺の話を聞いていた。俺が話を終えると、キースはしばらく黙ってグレーの瞳を床に投げていたが、やがてゆっくりと俺に向き合い、言った。
「イヴァン、まず、これだけは聞いておく。お前はその記憶を、本当に、すべて取り戻したいのか?」
「もちろんだ」
即座に俺は答えた。するとキースも間を置かず、こう俺に反応した。
「思い出さない方が、幸せなこともあるかもしれないんだぞ。それでもか?」
俺はキースの意味深なその言葉を聞き逃すわけには行かなかった。俺はキースを睨み返した。
「キース? お前は俺の何を、知っているんだ?」
「いろいろとだ。だが、今は俺の口から話すことは出来ない。俺にも立場があるのでな」
俺は今、自分がベッドで半身しか起こせない身であることを、このときほど悔やんだことはない。本当だったら胸ぐらを掴んで問いただすシーンじゃないか、これは。
仕方なく俺はキースを続けて睨み付け、短く問うた。
「どういうことだ?」
「イヴァン、悪いことは言わない。お前はそのままの記憶でいろ。これは忠告だ。そうしないと、お前は消される」
「ほう。そんなに俺の記憶はやばい代物なのか?」
キースは無言だった。
だがその顔つきから、奴の俺の問に対する答えは、限りなく肯定に近いと俺は悟った。そして俺が心底ぞっとしたのは、奴の次の言葉だった。
「お前だけでなく、周囲の人間も危険に巻き込むことになるぞ」
キースはそれだけ言うと、調書を片手に立ち上がった。焦茶色の奴の髪が揺れる。彼は、これ以上、俺の質問に答える気もないことを行動で示して見せたわけだ。だが俺は震える手でそれを制した。
「待て! キース。まだ、ひとつ質問に答えていないぞ。どうしてスノウのことを妻ではないと分かった?」
すると、キースは、ふっ、と笑って答えた。
「それは簡単さ。お前の事件を知ったとき、まず身元の調査をするだろう。
「そりゃ、そうだな」
俺は納得して頷いた。考えてみれば、それは当然のことだった。
だが、そんな俺にキースは最後の一撃を放った。
「ついでに、もう一つ忠告だ。お前、これ以上、記憶のことを追っていくと、まず、命の前に、
思わぬ方向からの攻撃に、俺は絶句する。そして、呆然とする俺を置き去りにして、キースは大股で病室を出て行った。
こんな肝心なときに、キースを追いかけることも出来ない身体であることが悔しく、俺はただ強く歯ぎしりするしかなかった。
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