23 暗転
イヴァンが誕生日に気付いてくれた。
しかも、私に誕生日プレゼントを買うと言って、意気揚々と部屋を出て行った。私はそれだけで嬉しくてたまらなくて、うきうきとしながらイヴァンの帰りを待っていた。
誕生日プレゼントなんて、気恥ずかしくて、いい、と言ったのに。私にはこの指輪があれば十分なの、と告げたのに。でもイヴァンは「お祝いは遠慮するな」と言ってくれた。
そして、まだ、何を買おうか迷っているのか、帰ってこない。
私はアクアマリンの指輪を、船室の照明にかざしては、その煌めきを見ながら彼の帰りをただ待っていた。そこに彼の優しいあの瞳を重ねながら。そうこうしながら、ふと時計を見る。もう夕食の時間だった。
流石に遅い。
もういくら迷っているとしても、そろそろ、帰って来ても良い頃だ。
そのとき、船室のインターホンが激しく鳴った。
ドアならパス・コードで、自動で開けられるはずなのに。
イヴァンったら、ドアを開けられないほどのプレゼントでも抱えているのかしら。まさかね。
私はそう思ってドアに向かったが、違った。
鳴り響いていたのはドアではなく、モニターのインターホンだった。モニターの呼び出しの部屋番号が忙しく点滅している。
私は息をのんだ。その番号は医務室のものだったからだ。モニターの画面が切り替わる。心臓が縮こまる。緊迫した表情の看護士が映る。
「すぐに来て下さい。旦那さんが」
皆まで聞かず、私は船室を飛び出した。
医務室のベッドに横たわるイヴァンは、それまで見たことのないほど青白い顔色をしていて、右目の眼帯は外れ空洞は丸見え、そして、赤黒いうっ血した傷が顔と体のあちこちにあった。あの綺麗な薄いブルーの色の瞳は固く閉じられ、その彩りを見ることも叶わない。
私はそんな彼を見て言葉を失った。
「さっきまで、暴れて大変だったんですよ。やっと落ち着きました。見つかった部屋は、使用されていない船室だったんですが、そこでも、発見されるまで、よほど暴れたんでしょうね。傷はそのときのものと考えられます。まあ、そのおかげで見つかったので、良かったと言えば、良かったのですが。もう少し発見が遅かったら、危なかったです」
「いったい、イヴァン……主人はどうしてこんなふうに?」
船医は沈痛な表情を崩さず、椅子にへたり込んだ私に告げた。
「急性麻薬中毒の典型症状です」
私はあまりのことに叫ばずにはいられなかった。
「麻薬中毒? そんな、そんなわけは!」
体中が震えた。
どうしてイヴァンが麻薬などを? そんなはずはない、そんなはずはないと、荒ぶる感情が体の中で叫び続けている。
「奥さん、落ち着いて。分かっています。常用していたわけではないのは我々にも推測がつきます。何しろ、麻薬成分の血中濃度が致死レベルでした。麻薬常用者はこんな無茶は普通しないものです」
船医がそうきっぱりと言い切ったので、私はひとまず落ち着いた。
だが、そうだとしたら、もっと恐ろしいことになるではないか。ショックのあまり、私が言い出せないでいるのを見て、それを船医が代わりにはっきりと口にした。
「つまり、何者かが旦那さんに麻薬を過剰投与して殺そうとした、と考えられます」
誰かがイヴァンを殺そうとした。
その恐ろしい事実に直面して私は卒倒せんばかりだった。まるで、悪夢のなかにいるようだ。
「だけど、奥さん。幸運だったこともあるんですよ。旦那さんは頭を機械手術なさっていますね。致死量の麻薬を投与されながらも、そのせいで脳に決定的なダメージは至らずに済みました。普通の人間だったら即死だった」
即死。
普段使わないような恐ろしい言葉が、ぽんぽんと飛び出て、私の神経こそ狂いそうだった。耐えきれず、涙がぼろぼろと堰を切ったように流れ出す。船医はそんな私を気の毒そうに見やりながらも、語を継ぐ。
「ともあれ、これは殺人未遂事件として、当局に連絡せざるを得ません。そのときは奥さんも話を聞かれることもあるでしょう、それは心して下さい」
そんなことは、そのときの私にはどうでもよかった。
私はイヴァンが目を覚ましてくれれば、それだけでよかった。
そんな私の心を察して船医が言った。
「幸い、容態の大局は脱しています。後はこの数日の経過によります。我々も最善を尽くしますので、どうか落ち着いて見守ってあげてください」
私は痛々しい姿のイヴァンの傍に向き直り、そっと手を取った。無骨でごつごつとした、愛しい手。私のことを何度も抱きしめてくれた、かけがえのない手。
お願い、この手でまた私を抱き寄せて。ねえ、だから、早く目を覚まして、イヴァン。
私の大粒の涙が、ぽたり、とアクアマリンの指輪に落ち続ける。
いよいよ眩しく煌めいて見せる輝きも、そのときばかりは陰鬱に曇って見えた。
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