21 人違い

 思い切って潜り込んでみたイヴァンのベッドは、暖かかった。やわらかな毛布と、細くてごつごつとした男らしい、イヴァンの体の感触。服を介してではあるけれど、私はそれを傍に感じられて幸せだった。


 本当のことを言えば、イヴァンに抱かれてみたい。

 私のそのままの肢体に、彼に触れて欲しい。


 でも今は贅沢を言うまい。これだけでいい。これだけでいい。


 イヴァンの寝息に誘われるように、私もいつの間にか寝入ってしまって、それからどのくらい時が経ったのだろう。私は人の話声で目が覚めた。イヴァンが誰かと、客室のモニターを通して会話している。

 私は、微睡んだまま、布団のなかでそのやりとりに耳を傾けていたが、その内容は思った以上に緊迫したもので、一気に目が覚めた。


「そうは言われても、俺たちは一介の客に過ぎないし、それはあんたたち、船員でなんとかするのが筋ってものだろう、船長」


 イヴァンの困惑した声が聞こえる。その語尾から、この船の船長と会話していると察しは付いたが、イヴァンと何を話しているのだろう。私は毛布のなかで耳をそばだてた。続いて船長らしき声が耳に入った。それは、どこまでも懇願に近い声だった。


「そこをなんとか。お願いしますよ」

「断る。俺はともかく、スノウ……妻を危険な目に遭わせるわけにはいかない」


 イヴァンの冷徹な声が響き、そして、その台詞のなかにいきなり自分の名前が聞こえ、私は固まった。一体、何事だろう。イヴァンは私が目を覚ましていることには気が付いてない様子だ。


「しかし、このままだと、乗船している人間全ての命に関わるんですよ。なんとか奥さまにご協力いただけたら、それが回避できるかも知れないんです」

「だからといって、スノウを犠牲にしてたまるか!」


 イヴァンの怒号が飛ぶ。そして彼は激しく一方的に通話のスイッチを叩き切った。

 私は彼の剣幕に驚いてベッドから飛び起きてしまった。怒り心頭、といった表情のイヴァンが私の方を見る。そして、既に私が目を覚まして通話を聞いていたことを察し、しまった、という顔をした。


「イヴァン、何事なの?」

「何でもない」

「何でもなくないでしょ」


 彼の左目の薄いブルーの色が陰りを帯びる。彼が困っているのは分かったが、通話で交わされていた、何やら、ややこしい問題に自分が関わっているとなっては、私も簡単に引き下がる訳にはいかなかった。

 私は勢いよくベッドから飛び降り、イヴァンの傍らに駆け寄った。

 イヴァンはしばらく黙りこくっていたが、私が、追求する視線を自分の顔から逸らさぬ様子を見て、溜息を大きくつくと、私の肩に手を置いた。


「分かった、話すよ。だが、いいか、スノウ、約束しろ。これから話す事柄に一切、責任を感じるな」

「うん」


 それから彼は、船長が連絡してきた、今この船が陥っている大事件の一部始終を話し始めた。



「昨日夕刻のことらしいんだが、この船の航海士のひとりが発狂したようなんだ。どうやら、先日バレンシアで下船した際に麻薬を服用したらしく、それのせいらしいんだが。まったくメディカル・チェックはどうなってやがるんだ、この船は。戦時の恐怖を忘れるために、麻薬が一般市民にも蔓延して久しいっていうのにな」


 そこまで語ってイヴァンは、いったん息を整えた。忌々しい、と言わんばかりの顔である。


「それでな、操舵室で大暴れした挙句、そいつは機関室に銃を持って立てこもっちまったっていうんだよ。機関室は船を動かす重要な機器が詰まっていやがる場所だから、下手にそいつにシステムを破壊されたら、この船は自爆しかねない。それで手出しできないでいる」

「それは大事件ね」


 私は降って湧いてきた、としか言いようのない突然の大災厄に、いまいち、実感のわかないまま、そう答えた。だけど、それに私が何の関係があるというのだろう。


「で、だ。ここからが肝要なんだ。そいつが投降する条件として、妻にもう一度会いたい、って言っているんだと。そうすれば大人しく外に出ると、さ。だが、調べでは、そいつの妻はもう死んでいる。だから、そいつが狂っているとしかいいようのないわけだがな。しかし、そいつの頭の中では、この船のなかに妻が乗っていることになっている。この船のなかに妻に似た女がいた、確かに見かけた、と、そいつは繰り返し主張している。で、その妻とは、何の因果やら、スノウ、君だというんだ」

「とんだ見間違いね」

「そうなんだよ」


 イヴァンは、一気に一部始終を吐き出すと、まいった、とばかりに嘆息し、金髪を掻きむしった。そして、私はようやく、この大事件と自分の関連について認識した。


「それで、とりあえず、私を引渡せ、って話になったのね」

「そうだ。だが、それは俺が許さん」


 イヴァンの言葉には確固たるものがあった。それが私の身の安全を思いやってとのことだと思うと、心にじんわり温かいものが広がる。

 だけど、私は、彼のその配慮を無にするような言葉を口にした。


「私は、別に、になってもかまわないんだけど」

「それで、この船が助かるって、か? そんな、なストーリーは、俺はご免だね」


 イヴァンはそう言うと、手元の杖をさっと手に取ると、私の胸に突きつけた。そして、厳しい表情と口調で私に向かって語を継ぐ。


「スノウ。君は優しい。けれど、こんなことで命を失っちゃ、つまらないし、何より俺が耐えられん。行かせるわけにはいかん」


 私は笑った。

 不思議なことだが、私はこの事態に恐怖を感じなかった。かといって、自分を犠牲にしてこの船を助けるのだ、という悲壮感も皆無だ。そのとき私を駆り立てていた使命感は、何だろうか。自分でも良く分からなかったが、敢えて表現するとしたら「あなたとこの先も旅を続けたいから」という強い気持ちだろうか。


「イヴァン。私は別に、死にに行くつもりはないわよ。その立てこもり犯を説得して、部屋の外に出せばいいだけのことでしょ」

「簡単に言うな。奴は銃を持っている」

「簡単になんて言っていない。私は何より、こんなことであなたとの旅が終わってしまうのが嫌なの」


 しばらくの沈黙の後、やがて、私の強い意志にイヴァンが折れた。彼は私の胸から杖を放すと、視線を床に放り、力なく呟いた。


「すまん、スノウ」

「あなたが謝ることじゃない」


 私は項垂れるイヴァンをきつく抱きしめ、そして、スカートの裾を翻し、ひとり船室を出た。



 二時間後、私は船長から渡された防護服を衣服の下に着込み、機関室の扉の前に立っていた。

 護身用に小型のレーザー銃を持っていくか、聞かれたけれど、それは断った。私の銃の腕では、何かあって使わざるを得なかったとしても、しっちゃかめっちゃかに発砲して、それこそ室内の機器を破壊しかねなかったし、また何より、それで人の命を奪うのも嫌だった。


 怖くないと言えば、嘘になる。

 だが、私には妙な確信があった。私とイヴァンの旅はこんなところで終わらない、だから、こんなところで私は死ぬわけは、ないと。それが私を端から見れば無謀ともいえる行動に駆り立てている。


 それでも、いざとなれば足は震える。しかし、もう後戻りは出来ない。船長がこう言ってドアのインターホンに叫ぶのを、私は緊張のあまり、唇を噛みしめながら聞いた。


「イルク。マーガレットを連れてきたぞ。お前の妻のマーガレットだ」


 僅かに開いた扉の隙間から銃口が光る。

 マーガレット。それが今の私の名前。そう演じきらねば。そう強く心にその仮の名を刻み込む間もなく、私の手は強く引かれ、あっという間に三メートル四方ほどの狭い機関室のなかに体を引きずりこまれていた。

 至近距離には立てこもり犯、いや、イルクの顔がある。彼の褐色の髪は乱れ、その紫色の目は麻薬のためか、とろん、としていて、鈍く怪しい光を放っている。だが、私を見つめるその表情は、やわらかな歓喜の表情だ。


「マーガレットか? 本当にマーガレットだな? やっぱり、俺の傍にいてくれたんだな! そうだよな、空襲で死んだなんて嘘だよな!」

「そうよ、イルク」


 私は震える唇を必死に動かし、そして片手でイルクの体を抱きしめた。できるかぎりの優しさと、愛情を込めて。

 たとえそれが偽りの感情だったとしても、イルクが、せめてそのときだけは夢を見ていられるように。


 そしてもう一方の手で、教えられた通りの場所にあった非常コックのレバーを手探りで探して、掴み、慎重に引く。


 次の瞬間、機関室のドアが重々しい音を上げつつも勢いよくスライドした。

 そして、打ち合わせ通り、急いで床に身を伏せた私の体の上を、イヴァンの指揮により、無数のレーザー銃の閃光が走った。イルクの体から吹きだした鮮血が、私に雨のように降り注ぐ。


 それで全てが終わった。

 終わってみれば、それだけのことだった。


 気が付けば、血まみれの私の傍には、イヴァンが立っていた。

 その目前を、イルクの真っ赤に血濡れた遺体が船員によって運び出されていく。私は呟いた。


「どってことなかったわ。ただ、彼を殺す必要はなかった、と、思う。彼は、大切な人に一目会いたい、それだけだったのよ。きっと」

「そういう君の優しさが好きだ、スノウ」

「私は優しくなんかないわ、だって彼を騙して殺したんだもの」


 イヴァンは黙って頷き、私の赤く染まった髪を撫でた。それは肯定ではなく、もう何も言うな、の合図だと私には分かった。口をつぐんだ私の手を引き、イヴァンが言う。


「さぁ、シャワーを浴びないとな。行こう」

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