第8章 虚空 Ⅲ

20 なくしたもの ここにあるもの

 スノウが帰ってきた。


 あの忌々しい「おまじない」とやらのせいではないと思いたいが。


 俺は安堵のあまり、スノウを見た途端、駅のホームにへたり込んでしまった上に、涙が生きている左目にうっすら溜まってしまったが、スノウに見られなかったかどうか。本当は家出娘を迎える父のように、できるだけ厳しい顔つきで出迎えようとしたが、やはりそうはうまく出来ないものだ。


 父のように。


 いや、俺は父だった。ナターシャという娘がいた。

 今はおぼろげになってしまった記憶の彼方にだが、確かに、大事な愛しい娘が。


 だが、アンナは、事故でナターシャは亡くなったという。

 そしてターニャは、ナターシャは俺が殺したのだという。


 なんだ、この、相違は。

 俺はそれをまだ思い出せていないが、恐ろしい謎がこの問題には秘められている、と想像せざるを得ない。もちろん、アンナが言うように、俺が殺したというのは、ターニャの妄想に過ぎぬのかも知れぬが、せめて、その相違の真相だけでも、突き止めなければ。


 とは思ったものの、俺は船室にたどり着くと、あまりの疲れから、そのままベッドに倒れ込んで、寝入ってしまった。宇宙船がバレンシアを離陸したのも気付かないほどに、深い眠りに潜り込んでいた。人間、睡眠が足りてないと、何も出来ないものだ。だが、これで、再会した妻からは罵倒され、消えたスノウを探しに一晩中セントラル・パークを徘徊し、挙句、男にキスされるという珍事を味わわせてくれた惑星とはようやくおさらばだ。


 疲労による深い眠りから、俺が目覚めると、船は再び宇宙空間を旅していて、そしてソファーに座り込んだスノウは何かを楽しげに見つめている。俺が寝ぼけ眼でスノウの手元をのぞき込むと、それは一枚の絵だった。


 もっとも、絵といっていいのか。俺には幼児の落書きと見分けが付かぬ代物だったが。


 だがスノウは幸せそうにそれを眺めている。起き出してきた俺に気づいたスノウは、すかさず船室のちいさなキッチンにてコーヒーを淹れ、マグカップを俺に手渡した後、それは嬉しげに、こう説明して見せた。


「これは私なの」

「ほう。俺には芸術はとんと分からんが。どこで手に入れた?」

「モデルになって描いてもらったのよ、セントラル・パークで」


 俺は目覚めのコーヒーを危うく吹き出すところだった。


「モデル! スノウ、お前やっぱり!」

「何、いやらしいこと考えているのよ! この絵はそういう絵じゃないの!」


 スノウは、むっ、として俺にそう答えたが、その態度はどこか誇らしげだったので、俺はその絵らしきもの、についてそれ以上追及するのを止めた。何はともあれ、大切な存在である人間が幸せそうにしていることはいいことだ。


 だが、だ。机を見ればアクアマリンの指輪が置かれたままになっているのを見て、俺の心に嫉妬が生じた。

 俺はマグカップをテーブルに置いたその手で、指輪を拾い上げると、スノウに渡した。


「絵も良いが、これも大切にしてくれよな」

「やだ、ジェラシー?」


 スノウが悪戯っぽく、うふふ、と笑うので、俺はぶっきらぼうに頷いてやった。

 すると少し間を置いて、スノウも頷いた。


「イヴァン、もちろんよ。私は、もうあなたを離したくないもの」


 その声は少し震えていたかのように思う。スノウも絵をテーブルに置くと、指輪を、ゆっくりとした仕草で左手の薬指に、また、はめた。



 その日、俺は飯を食い、身だしなみを整えると、宇宙船の一角にあるライブラリーに向かった。小規模の図書室だが、本星の図書館と回線が繋がっているから、大抵の電子書籍や資料はここで閲覧することが出来る。

 人影まばらなライブラリーの片隅で、俺はモニターで終戦直前の新聞を呼び出すと、いくつかのキーワードをキーボードに打ち込んだ。


「学童疎開船」

「撃墜」

「事故」


 資料は一瞬にして現れた。当時の新聞がモニターに浮かび上がる。

 これが、アンナが言っていた、ナターシャが乗船していたという疎開船の事故の記事か。俺の欠損した記憶を埋めるには、まずこの事故の詳細を知らねばならない。俺は食い入るように画面を見た。


 だが、そのときだ。俺のいつもの発作が現れた。しかも今までにないほどに激しく。


 こめかみが強く疼く。

 ヴァイオリンの狂った音色が耳の奥を激しく打つ。

 耐えがたい頭痛と吐き気。

 ぐるぐると回る記憶の渦。肌を伝う脂汗。


 気が付けば俺はモニターに突っ伏していた。文字を目で追おうとしても、体中に悪寒が走り、それも叶わない。俺の意識はそこで途切れた。


 次に目を開けたときには、俺を探しに来たスノウが傍に突っ立っていた。


「やだ、イヴァン。いくら疲れているからって、ここでうたた寝していたの?」


 どうやら、「それ」を思い出すことを、俺の頭は全力で拒否しやがるようだ。

 ならば。


「スノウ、頼みがある」


 俺は、きょとん、とした顔をする彼女にこう言った。


「君の力を借りたい。調べて欲しい事件があるんだ」



 一時間後、船室に戻って横になっていた俺の元に、スノウが帰ってきた。手にしているのは、結構な量の紙束だ。


「あなたが言ったとおりのキーワードを打ち込んだら、これだけ資料がプリント・アウトできたけど」


 俺はスノウに礼をいう間も惜しんで、その紙の山と向かい合った。再び吐き気と悪寒が湧き上がったが、耐え忍んで、俺はその資料を一字一句目に焼き付ける。それは当時の各社の新聞記事だった。


「我が国の学童疎開船団が敵に撃墜される」

「護衛艦を含めて、全て船団は全滅。生存者なし」

「この人道に反した攻撃に対して、政府は直ちに抗議の声明を発した」


 プリント・アウトした資料の量に対して、得られた情報はそのくらいだった。

 仕方ない、終戦直前の情報統制がひかれていた時分だし、新聞で得られるのはこのくらいの情報に過ぎないのは分かっていた。俺は息を整えると、スノウに質問した。


「スノウ、これ以外の資料はヒットしなかったのか?」

「調べたわよ。でも、再度検索した途端、ロックされちゃって駄目だったの」

「ロックされた?」

「ええ。その後、何度やっても、アクセスできなくて」


 俺は腕組みをしながら、天井を見上げしばし考えに耽った。スノウはそんな俺を見て訝しげな顔をしている。


「イヴァン、この事件とあなたは、何か関係があるの?」

「ああ、この撃墜された船に、俺の子どもが乗っていたらしいんだ」

「あなたの、子ども?」


 俺は資料の束をテーブルに置くと、流れ出す脂汗をスノウに差し出されたハンカチで拭いながら、呟いた。


「ナターシャという、女の子だった、らしい」


 らしい、らしい、らしい、らしい、らしい。

 曖昧な記憶の羅列。どうしても取り戻せない、ぶつ切れになった記憶の破片。それがどれくらいあって、どれほどの意味があるのか、今の俺には全くもって見当が付かない。


「イヴァン、顔が真っ青よ」


 スノウはそう言うと、今度はホットミルクを手早く作り、俺に差し出してくれた。

 甘い匂いと湯気が俺の鼻をくすぐる。ついで、もう少し横になっていたら、とでもいうように、俺の肩に毛布を掛ける。俺はやっと人心地がついて、大きく息を吐きだした。


「ありがとう、スノウ、生き返った気分だ」


 俺はミルクを一気に飲み干し、空になったマグカップをスノウに渡すと、もう少し休息を取ることにし、ベッドにゆっくりと横たわり目を瞑った。すると、スノウが、ためらいがちに俺に尋ねる。


「ねぇ、イヴァン」

「なんだ」


 俺は目を閉じたまま答えた。


「調べ物のご褒美がほしい」


 そう言うとスノウは俺のベッドに自らも身を横たえ、俺の毛布に、すっ、と身体を入れてきた。突然、スノウの肢体の熱を体に感じた俺は、慌てて目を開く。見れば、スノウの黒い瞳がすぐ傍にあった。


「抱いて欲しいわけじゃないの、ただこうしていたい」

「そうは言うけど俺だって男だぞ。こんな風に添い寝されたら、我慢できなくなっちまうかもしれない」

「そのときはそうしたら、いいわ」


 スノウはそう言うと目を閉じた。

 俺もつられて同じように目を閉じる。

 スノウの体のぬくもりが心地良い。そのまま俺は睡魔に襲われ、ゆっくりと眠りの底に落ちていく。

 

 ぼんやりとした意識のなか、スノウが寝返りを打つ。俺はすぐ横にある、服を着たままのその体に手を伸ばす。

 そっと、抱き寄せると、スノウが、ふふっ、とちいさく笑う。


「くすぐったい」


 今、ここにある、スノウというぬくもり。

 それがなくしてしまったものをどれだけ埋めてくれるのか、またはそれを上回る幸せをくれるのか、そのときの俺には分からなかったが、久々に良い夢を見られそうな予感が、薄れゆく俺の意識を掠めていった。

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