19 プラットフォーム

 宇宙港に戻るトラムに揺られながら、私は、あっさりと、イヴァンの元に戻る気持ちになった心を、自分自身、驚きの目で見つめていた。


 昨夜までの自暴自棄の心持ちがまだ、残っていないわけでもないし、奥さんに会いに行ったイヴァンが戻ってくる確証もないのは相変わらずなのだけれど、このまま、何の言葉もなく私の元を去るイヴァンではないと、信じたい想いが私の胸を占めつつあった。

 今、イヴァンは何をしているだろう。残されたアクアマリンの指輪を見て、どう思っただろう。私を探していてくれるだろうか。それとも、厄介払いができたと、ほっ、としているだろうか。


 様々な考えが心に浮かんでは、消える。

 私は手にしたショーンの絵の紐を解き、トラムのなかでこっそりと見ては、湧き上がる不安を消そうとした。


 数多の色彩が躍る紙。汚れてもない、清くもない、私。


 あの夜以来、自分は汚いものでしかない、としか思えなかった私にとって、その認識は、新鮮で、淀んだ雲間から降り注ぐ光のような感覚を与えてくれた。

 このままの私でも、生きていて、いいのかもしれない。そんなことすら、ちらり、とだが、脳裏を掠める。


 この絵は私の、勇気。


 また人もまばらな、始発のトラムのなかで、私は絵を、ぎゅっ、と抱きしめた。

 そうしているうちに、トラムは終点の宇宙港駅に着いて、私は、イヴァンが戻ってきているとしたら、さて、どんな顔をして会えば良いのだろうか、と改めて思案しながら下車する。


 思案するまでもなかった。

 聞き覚えのある音が耳を弾き、私はそちらを見た。杖が床を滑る響きだった。

 見れば、隣の車両から、ホームに、イヴァンが杖を突きながら降り立ったところだった。


 疲れ切った表情をしている。

 右目の眼帯はずれ落ちそうで、薄いブルーの左目には心なしか隈ができている。眉をしかめながら、ゆっくりと、杖を操り、おぼつかない足取りで私の方に進んでくる。かつん、かつん、かつん、と早朝の駅構内に響く杖の音。

 そして、それが止った。


 イヴァンが私を認めて、足を止めた。私の顔を見て、まず、イヴァンは大きく息を吐いた。そして、改めて私を見つめ直すと、脱力したかのようにその場に座り込んだ。


「イヴァン!」


 私は彼に駆け寄った。

 ホームに座り込んだイヴァンは下を向いていて、どんな表情をしているか私からは見えなかった。対して私も、どんな顔で彼に向き合ったのだろうか。とにかく、息を弾ませて彼の元にたどり着いた私は、イヴァンを助け起こそうと肩に手をかける。

 そのとき、ちらりとだが、彼の左目が微かに光っているのが見えた。


 イヴァンは泣いていた。

 だが、そうと悟られぬようにイヴァンは、さっと腕で顔を拭うと、何事もなかったかのように私を睨んで、こう言った。


「どこへ行っていた、この不良娘」


 彼は床に座り込んだまま私に問いかける。顔立ちは険しかったが、その口調は私を責めるというより、安堵の音色に満ちていた。


「セントラル・パーク」

「奇遇だな。俺も同じところに行っていたよ」


 イヴァンはそれ以上表情を崩すまいとしながら、厳しい顔つきで私を見やる。


「私を探しに?」

「さあな」


 彼は私の言葉を否定も肯定もしなかった。

 それでも、私は分かった。イヴァンは、私を追って、一晩中あの街を探し回っていたのだと。私は、床に腰を下ろしたままのイヴァンに抱きついた。


「私、何もしなかったわよ、誰かに抱かれたりしなかったわよ」

「そうか」


 イヴァンは、信じるよ、とは言ってくれなかった。けれども、嘘をつけ、とも言わなかった。私は何よりそれが嬉しくて、彼をさらにきつく抱きしめた。朝二番目のトラムがホームに滑り込んできて、ホームに巻き起こる風が強く私たちを揺さぶる。


 どのくらい時間が経っただろう。イヴァンがポツリと呟いた。


「俺は君との旅を続ける。知らなければいけないことが、たくさん出来た。旅をしながら、それを追う」

「奥さんは?」

「生きていたよ。だが、彼女とは、おそらく、もう駄目だろう」


 彼の顔には暗い影が落ち、その表情は悲壮感に満ちていた。

 私は何も言葉が見つからず、思わず、彼の短い金髪をそっと撫でた。ホームに降り立った人々が、そんな私たちを興味深そうに見ている。


 だけど、私は彼の身体にしがみついたまま、何があったかは分からないけれど、傍にいてくれてありがとう、ありがとう、と心の中でイヴァンに囁き続けていた。

 そう囁き続けることしか、できなかった。

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