18 少年

 妻との悪夢のような時間を終え、混乱する頭を抱えながら宇宙港の船に戻ってみれば、スノウがいなかった。


 慌てて船内のおよそ全ての一般客が立ち入れそうなゾーンを巡ったが、スノウの影も形もなく、へとへとに疲れて船室に戻ってみて、俺は間抜けなことに、テーブルに置かれたアクアマリンの指輪に、初めて、気付いたのだった。


 置き去りにされたアクアマリンの指輪から俺はスノウの「本気」を感じた。俺から離れる「覚悟」ともいうべきか。


 スノウは指輪だけでなく、荷物のすべてを置きっぱなしで出て行っていた。それだけ見ると、衝動的にふらり出て行ったかのように見え、しばらくすれば帰ってくるか、と楽天的に考えたかったが、アクアマリンの指輪がやはりそうではない、と告げてくる。実際、夜が来てもスノウは帰ってこない。


「あいつ、金もないのに」


 溜息がてらそう呟いて、俺ははっと左目を見開いた。


 金を作る手段なら、あいつは唯一無二の方法を知っているではないか。

 つまり、自らの身体を売ることだ。

 そうやって、これまでも生きてきたのだから。どうして、これからもそうして生きていかないと言えるか。

 いや、むしろ、俺に捨てられたと感じれば、スノウは進んでその道に戻ろうとするだろう。


 止めろ、スノウ!

 俺はスノウを再びそんな目に遭わせたくて、この旅に連れ出したんじゃない!

 

 俺は船を飛び出し、息を切らして、再びこの忌々しい惑星バレンシアの地表に降り立った。船が再出航するのは明後日の朝だ。なんとかそれまでにスノウを見つけなければいけない。

 俺はクローズ間際の観光案内所に駆け込み、ひったくるように案内員からこの星の観光地図をもらうと、目星をいくつかの歓楽街に付けた。だが、片っ端から見て回る時間はない。俺は案内所を閉めようと準備を始めている案内員に詰め寄って叫んだ。


「この星で一番の歓楽街はどこだ! 行きずりの女を抱けるような!」


 案内所にいた僅かな客が一斉にこちらを見、案内員が眉をひそめる。

 俺は自分の発言にいささか羞恥心を感じたが、だが今はそれにかまっている暇はない。若い男性の案内員は固まった笑顔のまま、できる限りの小声で俺に言った。


「それならば、セントラル・パークがお勧めですよ。ただ治安は相当悪いので、お気を付けて……」


 俺はその言葉を最後まで聞かず、外に飛び出てタクシーを拾うと、セントラル・パークへ行くよう運転手に告げる。

 運転手の男がもの好きな、とでもいうふうに、ぴゅう、と口笛を吹いた。


 俺は杖でぶん殴ってやりたい気分だったが、さすがにそれは必死に堪えた。



 到着したセントラル・パーク一帯は、けばけばしいネオンが躍るビルにバーやホテルの看板がぎらつく、なるほど、分かりやすいほどの猥雑さに満ちた歓楽街だった。

 金と快楽と欲望が全て、といった顔の男女のグループが何組も、おそらく麻薬でもやっているのだろう、妙なテンションで奇声を上げながら俺の横をすり抜けていく。時刻は夜もたけなわ。バーからは騒々しい音楽が漏れ、そして喧噪のなかを頼りない足取りで進もうとするたびに、腕をありとあらゆる客引きの手に掴まれる。


「あらいい男ね、ちょっと寄っていきなさいよ」

「お客さん、いい娘、いますよ」


 周囲から湧き上がるそんな声を無視しながら、掴まれた手を振りほどきながら、俺は歓楽街を見回す。

 年端もいかない女がいれば、いったん立ち止まり、まじまじとその顔を見るが、スノウではない。そして、おぼつかない足取りで立ち去ろうとすれば、そのたびに必ずと言っても良いほど背中に罵声を喰らう。


「なんなんだよ、あんた、お高くとまりやがって!」


 スノウもこんなことをやっていたのだろうか。あの、俺が連れ出したウィリアム街で。そして今、まさに今、こんなことをやっているのだろうか。この街のどこかで。俺の気持ちは焦る。

 だが、思ったより歓楽街は広い。あてもなく歩き回るうちに、俺はいつのまにか、ネオンも人もまばらな、暗く細い路地が入り組む一角にいた。


 俺はさすがに息が切れてきて、そこに座り込んでしまった。疲労が身に染みてきて、杖を地面に放り出し、呼吸を整えようと試みる。ネズミらしき小動物が肩で息をする俺の足元を素早く駆けていく。


 そのとき、視界に人影が過ぎった。見れば二人の男が、ひとりの少年を組み敷いて殴りつけている。俺は思わず壁に手をかけ、立ち上がり、彼らを見た。

 すると二人の男は何やら口にしながら、慌てた様子でその場から逃げ出した。事情が分からず、ぽかん、とする俺の耳に呻きながら立ち上がった少年の声が響く。


「ありがとう、助かったよ」


 ありがとうも何も、俺は何もしていないのだが。

 街灯に照らされた少年の背格好は十八、九。黒髪のうえ、体つきは細く、この場に似つかわしくない繊細な顔立ちだ。俺は瞬間的にスノウを思い出し、何も言えずにいると、少し残念そうに少年が言った。


「相手を探しに来たって顔つきじゃないね。惜しいな、タイプなのに」

「お前、男娼か」

「男娼も何も、この辺は、その手の客が徘徊するエリアだぜ。それすら知らないってことは、道に迷ったんだね。いいよ、俺が駅まで送ってやるよ」


 そう少年は言うといきなり俺の腕に自分の腕を絡めてきた。


「おい、よせよ。俺にはそういう趣味はない」

「分かっているって。だけど、カップルのふりでもしてなきゃ、簡単に道も進めないのも歩いてきて分かっているだろ? だから、これはサービス」


 何がサービスだ。だが彼が言うことも、もっともだったので、俺は仕方なく少年と腕を組んで、路地を出た。


 

 いかがわしい歓楽街も、明け方を迎えていた。

 猥雑極まりない街のなかを恋人同士のふりをして、少年のリードで俺は歩く。妙な感覚だった。


「なんで、さっきの連中は俺を見て逃げたんだ?」

「ああ、あんた、あの界隈のリーダーに背格好が似ているんだよ。奴は仲間同士の争いにうるさいからな。俺も見て一瞬、やべえ、と思ったもん。それに」

「それに?」

「好きな人に、かっこ悪いところを見られるのは恥ずかしいしね」

「つまり、お前はそいつのことが好きなのか」

「ご名答。だから、あんたがタイプってのも、そういうことさ」


 そう言って少年は俺の顔を見るとウィンクした。俺の顔はたぶん赤くなっていたに違いない。いやはや。

 そんな俺を楽しげに見ながら少年は、俺の腕にぶら下がりつつ尋ねてくる。


「あんたは、何をしにこんなところに来たんだい?」

「人を探している」

「へえ、好きな人?」

「そうだ」


 その言葉が、さらっ、と出てきて、俺は自分に驚いた。


 スノウは俺にとって何だろう。


 今まで、向かい合うことを避けていた問いが頭の中を占める。他人、ではもうないだろう。大切な存在だ。それは間違いない。だが、離縁を迫られたとはいえど妻のこともあるし、一概に恋人と括ってしまうのは、彼女の想いを承知しながらも、スノウになんだか失礼な気がする。

 好きな人。あまりにもざっくりしすぎているが、俺はそのときスノウのことをそう答えざるを得なかった。


「いいねぇ。両思いか」


 少年の声で俺は我に返る。俺は、むっ、として答えた。


「そういうわけでもない。知ったような顔をするな」

「いや、俺、結構、勘はいいって評判なんだぜ」


 そこで少年は悪戯っぽく笑うと、俺の顔を見据え、ぐっと顔を近づけると、言った。


「予言してやるよ。あんたはその人と、すぐに会える。あんたはその人を見つけ出せる」


 何を根拠に、と俺は言おうとした。だが、俺は言わなかった。いや、言えなかったのだ。

 なぜなら、少年が俺の顎を素早く、くっ、と掴むやいなや、有無を言わさず、唇を重ねてきたからだ。


「!」


 俺はあまりのことに呆然として、腰を抜かすところだった。慌てふためいて、飛び退くように顔を少年の唇から離す俺を見て、少年は、あはは、と笑った。


「これは、おまじないだよ。あんたの想い人がすぐ、目の前に現れるようにね。いやあ、あんた、純情。耳まで真っ赤だよ。はい、ここがセントラル・パーク駅。じゃあな!」


 少年はそう言うと、笑いながら黒髪を揺らし元の方向に駆け出していく。あっという間にその後ろ姿は、歓楽街の路地のなかに消えて、見えなくなった。

 取り残された俺は、少年の、そのやわらかな感触も生々しい唇を、もごもごと動かし呟いた。


「……馬鹿野郎! 俺は、スノウと、まだキスすらしていないんだぞ!」


 俺は、力一杯、足元に転がっていた空の酒瓶を蹴飛ばした。酒瓶は、明けてゆく空の鈍い光を反射しながら、からから、と音を立てて道を転がっていった。

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