第5章 惑星スフェーン

9 湖畔にて

 指輪盗難騒動から四日後、宇宙船は目的地、惑星スフェーンに無事着陸した。

 私たちが下船する前、現地の警察が車でやってきて、指輪を盗んだ兄妹が乗せられていく様子が窓から見えたが、私の心には何の感情も浮かばなかった。怒りも、同情も。


 取り調べから帰ってきたイヴァンに、彼らの境遇を簡単に聞いたときは多少哀れにも思ったけれども、それより、私は指輪が無事に戻ってきたことに安堵し、次いで、気が抜けてしまっていた。だから私は残りの乗船期間を、ただ手の中の薄いブルーの煌めきを見返しては、ただ船室の中で、ぼーっ、としていた。

 ただ、ぼーっ、としながらも、決してこれを二度と手放すまい、という固い決意は心の中で何度も繰り返してはいたけれど。


「スフェーンは美しい星だぞ。植物の植林が珍しくうまくいった有人惑星だからな、惑星内には緑の美しい場所がたくさんある」


 指輪に視線を放っては、始終ぼんやりしている私を元気付けようとしてか、イヴァンは何度もそう話してくれた。


 私は、そんな彼の優しさが嬉しかった。だけど、前の船での海賊を皆殺しにした件といい、今回の盗難騒動での勇敢で、かつ、私からしたら無謀とも思える行動といい、イヴァンは本当に、厳しい闘いを長らく経験してきた、優秀で、そして冷徹な軍人だったんだな、と思い知るに至り、その優しさとのギャップに改めて戸惑ってもいた。


 人間は優しくもあるけど、ある場面では、いくらでも残虐になれる。

 それは、常々、「夜」の仕事において私が身に染みてきたことでもある。



 降り立ったスフェーンは本当に美しい星だった。

 四季こそないものの、宇宙港から車をしばらく走らせると、そこにはもう眩しい緑の草原が広がっていて、スラム街の淀んだ光景のなかで暮らしてきた私には、ことのほか、その光景は心躍るものだった。そよぐ草に、緑の木々、地表には乱れ咲く数々の花。空は透き通るように青い。まるで天国というところがあったら、こういう場所なんじゃないかと思ったくらいだ。


「どうだ、綺麗だろう。スノウ」


 イヴァンも満足げに目を細めて、気持ちよさげに車窓の緑を楽しんでいる様子だ。


「本当ね! こんな綺麗な星があるなんて」

「この星はリゾート地としても有名だ。あまり戦禍にも巻き込まれずに済んだ星だからな。戦時中も金持ちどもは、疎開と称してこの星に押し掛けて、よろしくやっていたものなんだ」

「そうなのね」

「ああ、だが、俺たちにとって『スフェーンに行く』っていうと、全く別の意味になるんだが」


 そこでイヴァンは眉をしかめた。


「え? どんな意味?」

「死ぬってことさ」


 その意表を突いた答えに私は息をのんだ。

 イヴァンはそんな私の様子をちらりと見たが、その左目の薄いブルーの色は、やや翳りを帯びている。そして、彼は車窓に瞳を戻すとこう言った。


「この星には、大規模な軍人墓地があるんだ」



 次の船に乗るまでの一週間、私たちが滞在したのは、小さな湖のほとりにある赤い屋根がかわいらしいペンションだった。


「街のなかのホテルばかりでは、息が詰まるだろう。せっかくスフェーンに来たからには、こういうところで過ごすのも悪くない」


 イヴァンはそう言いながら、湖の木陰でペンションの主人が作ってくれたサンドウィッチをぱくついた。私たちはどうやら新婚旅行の夫婦と思われているらしく、ペンションの主人は、一生に一度の旅の思い出を素敵なものにしてやろう、とばかりに、私たちに対してそれはきめの細かいサービスで対応した。部屋に入ればシャンパンが用意してあるし、窓辺に置かれた花瓶には、毎朝違った生花が飾られるし。


 そして今日は、ピクニックにでも行かれたらどうですか、と、籐のバスケットに昼食を詰め込んで、私たちの部屋に持ってきてくれたのだった。


 これが本当に新婚旅行だったらなぁ。


 そう思いながら、だけど、なるべくそれは考えないようにしながら、私もジャムサンドに手を伸ばす。ジャムの甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。


 とりあえず、今、この瞬間が幸せなら、神様に文句は言うまい。

 そんな刹那に近い思いが私の心を覆っている。


 隣から寝息が聞える。

 気が付けば、イヴァンは木陰の芝に寝転び、昼下がりの微睡みのなかにいた。私は彼の身体が冷えないように、そっと、これまた宿の主人が持たせてくれたブランケットを掛けてあげた。

 心地の良い昼下がりだった。私も彼の横で寝てしまおうか。そう思って、身体を木陰に横たえようとしたときのことである。青く輝く湖のほとりの小道を歩いてくる人影があった。白いユリの花を抱えた黒い服の老夫妻だった。


 夫妻は私たちの前で立ち止まると、丁寧なお辞儀をしてきたので、私も慌てて身を起こして、ぺこり、と頭を下げた。品の良さそうな白髪の老婦人が微笑みながら声を掛けてくる。


「新婚旅行なの?」

「ええ、まぁ」

「それは素敵ね。私たちも、ここに新婚旅行に来たのよ。もう半世紀も前のことだけどね」


 白髭を蓄えた老紳士も微笑みながら頷く。私は心から、素敵だなあ、と思った。私もイヴァンとこうやって連れ添えたらどんなに良いだろう。老紳士はにこやかな笑みを崩さぬまま、眠ったままのイヴァンに目を留めると、私に尋ねた。


「旦那さんは軍人かね?」

「あ、はい、もう退役しましたけど」

「そうかね、無事に帰ってきたのなら何よりだ。私たちにも息子がいたがね、七年前に戦死してしまって、今はこの星に眠っているよ」


 私は、はっ、として老夫妻が手にしている花束に目を向けた。ユリの花の強い香りが私の鼻をくすぐる。

 そうだった、この星には大きな軍人墓地があるとイヴァンが言っていた。老夫妻は死んだ息子の墓に花を手向けに、今、この星に来ているのだ。私は何と会話を続ければ良いか分からなくなってしまい、何の意味もなく、傍にあった空っぽになったバスケットの柄をぎゅっ、と掴んだ。


「あの子にも、婚約者がいたのよ」


 老婦人はそんな私にかまわず話を続ける。

 心なしか、その言葉と私を見つめる視線には、羨望と嫉妬の感情がこもっているように感じて、私は少し、ぞくっ、とした。


「あの子もあなたたちみたいに、こうやって平和な時代に、優雅に新婚旅行でこの星に来て、ピクニックでもしたかっただろうにな」


 老紳士も相槌を打ちながら私に話し掛けてくる。

 間違いない、老夫妻は私たちに敵意を持っている。それが無意識か、意識してのものかは、分からなかったけれど、私を見るふたりの視線はいつの間にか冷たいものになっていた。


「妻に八つ当たりしないで欲しいな」


 イヴァンの声がした。

 気が付けば彼はいつのまにか目覚めていて、杖を支えに身を起こすところだった。彼はゆっくりと起き上がると、老夫妻に向き合った。


「妻だって戦争のおかげで相当の苦労をしている。俺だって、生き延びたもののこんな身体だ。生き残った者もそれはそれで、苦しみながら今を暮らしているんだ。それも分からずに、自分たちだけ被害者面するのはやめてくれないか」


 イヴァンの冷たい声が湖畔に響く。老夫妻は狼狽し、そして明らかにその瞳には怒りの色が躍っている。私はどうすればいいか分からず、ただ、バスケットの柄を固く握ったまま、その場に座り込んでいた。

 だが、凍り付いた空気をものともせず、老夫妻へのイヴァンの容赦ない言葉はさらに続いた。


「まあ、俺は仕方ない。あの戦争には多大な責任のある世代だからな。だが、それは、あんたたちも同じだろう? いや、あんたたちは戦争をおっ始めた世代の人間だ。そういう立場にありながら、生まれたときからつい最近まで、戦乱の世の中しか知らなかった妻のような人間に、八つ当たりするのはみっともないと思わないのか?」

「黙れ! 若造!」


 唐突に老紳士の怒号が響き、それに驚いた湖畔の水鳥が一斉に羽ばたいていく。飛沫がきらりきらり、と、場違いな美しさでスフェーンの陽のひかりに跳ねる。しかし、イヴァンは怯まず、負けじとばかりに、更なる大きな声で老紳士を一喝した。


「若造で悪かったな! 俺は、あんたたちみたいな責任も取ろうとしない老人が大嫌いだ!」


 私は驚いた。彼がこんなに腹を立てて大きな声で怒鳴るのは、出会って以来のことだからだ。

 だが驚いてばかりもいられない。さすがにもう、この言い争いは止めなければ。

 しかしそのとき、シュッ、と何かが風を切ってイヴァンを襲った。老紳士が怒りのままに、手にしていたステッキをイヴァンに向けて振り下ろしたのだ。


「あなた!」

「イヴァン!」


 老婦人と私の叫び声が重なった。そして、イヴァンの低い呻き声も。

 ステッキはイヴァンの首に命中していた。彼の不自由な身体では避けきれなかったのだ。


 イヴァンは首筋から血を流しながら身を傾け、草の上に転がった。

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