第4章 虚空 Ⅰ

8 小さな罪人

「いいか、女の好物が分からなかったら、とりあえず果物を頼んでおけ、それも多種類の盛り合わせ、な。好き嫌いがあると困るから。そうしときゃ、大抵の女は喜ぶもんだ」


 あれは誰だったか。たしか士官学校時代の、女好きで知られる悪友に言われたことだった。こんなところで、あの、ろくでもないアドバイスが役立つとは、まったく人生に無駄な知識は転がっていないものだな。

 俺はそんなことを考えながら、船のロビーにある大きな窓から、遠ざかる惑星シアンを眺めていた。泣くほど喜ばれたのには、多少困ったが。


「次の星には、どのくらいで着くの?」


 不意に、隣に立つスノウが俺に質問する。


「六日と四時間くらいかな。この星域を脱するには、小惑星帯を回避しつつ、航路を定める必要があるから、その計算によっては多少前後するが」

「ずいぶん、詳しいのね」

「そりゃあ、俺は除隊するまで十数年近く、宇宙を中心に転戦していたからな。人類が住みうるほぼ全ての惑星は回ったもんだ。大体のことには答えられる」


 すると、スノウは窓からその黒い瞳を俺に移して、独り言のように、ちいさく、だが鋭くこう言った。


「おかしいわ」

「何がだ」

「イヴァン、あなたが忘れていることは、本当に、家族のことだけなのね。だって、軍隊でのこととか、宇宙の知識とか、そういう事柄はちゃんと覚えているもの」


 俺は虚を突かれたような気がした。

 そうだ、まさに、スノウの言うとおりだ。


 俺が忘れているのは、家族の記憶だけだ。それと、それと?


 するとスノウが突如、俺の手を押さえた。驚く俺に彼女は心配そうに言う。


「駄目、あまり、記憶のことを考えすぎると、また具合が悪くなるわ」

「そうだな」


 俺は低く呻いた。そのとき、実際、耳の奥からあの狂った音色が聞えて来る気配がしていた。俺はスノウの助言に心から感謝した。このことを考えるたびに、倒れそうになっていては、とても身が持たない。俺は再び窓の外の暗闇を見つめた。もはや掌に載るほどの球の大きさになった惑星が、微かに光っている。


「わぁ、もう同じくらいの大きさになっちゃったわ」


 スノウは左手の薬指にはめた指輪の石と、惑星を比べては船の早さに驚いている。もちろん、俺が渡したアクアマリンの指輪だ。一時は俺に返そうとした指輪だが、それは幸いなことに思いとどまってくれて、それからは、スノウは常に指にそれをはめている。


 その場所に指輪をはめる意味は、流石に俺でも知っているが、そのことに何か言うのは止めておこうと決めた。彼女を不必要に傷つけてしまいそうだし、婚約者と思われた方がいろいろと便利な場面もあるだろうという、狡い計算もあった。

 だが、どうであれ、自分の渡した指輪を好んで身につけているスノウを見るのは、そう悪い気分ではなかった。


 

 事件が起こったのは、乗船三日目の朝のことだった。

 俺がバスルームから出てくると、血相を変えたスノウが床に荷物をひっくり返している。驚いた俺は、シャツのボタンをはめるのもそこそこに、彼女に声を掛けた。


「どうした、スノウ?」

「どうしよう、どうしよう」


 慌てた口調で、ただそう繰り返す彼女の顔は、白を通り越して青ざめていた。そして、ベージュのカーペットの上に乱雑に広がった荷物のなかに座り込み、顔色と同じ色に変わりつつある唇を、微かに動かした。


「……いの」

「え?」

「ないの、指輪が! どうしよう、私、どうしよう!」


 俺は困った。

 指輪のことよりも、目の前で半狂乱になっているスノウをまず如何に落ち着かせるか、に。とりあえず俺は彼女に歩み寄り、顔をゆっくりとのぞき込む。濡れたままの俺の髪から、いくらか水が滴り落ち彼女の胸元を濡らしてしまったが、これはもう仕方ない。それから俺はスノウの両手を握りしめながら、安心させるようにこう言った。


「大丈夫だよ、スノウ。落としたとしてもこの船の中からは出られっこないんだから。落ち着いて思い出せ、いつ、気が付いた?」

「食堂に朝食を取りに行って、部屋に戻ってきたら、なかったの」

「船室を出たときには?」

「着けていた、はずだわ」


 とすると、船室の外で落としたか。いや、落としたのではなく、盗られたのかもしれない。

 そうなると、ちょっと厄介なことになるな。俺はそう思ったが、それは口には出さず、急いで身だしなみを整えると杖を手にした。


「スノウ、とりあえず落ち着いて飯を食ってろ。腹が減っては、頭も働かないし、見つかるものも見つからないからな」


 俺はそう言い残し、ひとり船室の外に出た。



 俺はひとまず、食堂までの廊下を、目を光らせながら歩いた。綺麗にクリーン・マシンによって磨かれた白い床には塵ひとつ落ちていない。朝の清掃はまだのはずだから、マシンが誤って吸い込んだ可能性は低いだろう。


 とすると、やはり食堂か。

 この時間帯、こういった場に物盗りが出没するのは、客船内ではよくあることだ。今度の船はさまざまな惑星を巡る大型船ゆえ、そのぶん客層も雑多だ。やがて広々とした食堂に着くと、朝食の香しい匂いが漂うそのなかをゆっくり見渡して、怪しい人物がいないかに俺は意識を集中させる。


 俺はかまわず、不審がられるのを承知で、その場で飯を食っている客ひとりひとりをこれ見よがしに睨んで回った。眼帯姿の俺の顔は、ただでさえ、大抵の人間が、目が合えばものだが、そのなかに、過剰反応を起こす奴がいないか気を配って。


 そして、逆に、まったく平然としている奴がいないか、も。


 いた。

 俺の鋭い視線をものともせず、朝食を摂っている奴らが。

 それは、兄妹とおぼしき、十歳前後の茶色い髪の少年と少女だった。


 俺は杖を突きながら、ことさらゆっくりと、その音を甲高く食堂内に響かせて、二人に近づいた。子どもたちが、意識してがむしゃらに食事に集中しようとしているのは、俺から見れば、みえみえだ。俺は、子どもたちのテーブルの脇までたどり着くと、わざとらしく、声を掛けた。


「やあ、おじさん、ちょっと探し物をしているんだ。綺麗な指輪なんだが、知らないか」


 緑のシャツに半ズボンの兄らしき少年は、平然としたもので、俺と目を合わせようともしない。だが、ピンクのワンピースを着た妹の方は、ポタージュをスプーンで口に運びながらも、肩までの三つ編みを震わせ、もはや、泣きそうになっている。


 これは間違いないな、と、俺はさらに子どもたちの方に、身を乗り出した、そのときだ。

 みぞおちに強い衝撃を感じ、俺は呻き声を上げて、膝から崩れ落ちた。少年が渾身の力で、俺に体当たりをしてきたのだと気づいたときには、俺の手から杖が離れていた。

 そして、少年は音を立てて床に転がった杖を素早く拾うと、あろうことか、俺の胸を杖で強く殴りつけてきた。


「ぐっ!」


 強い衝撃と痛みに息がつまる。その隙に少年と少女は手を取り合って食堂から逃げ出した。

 驚いた人々が何事かと、俺の周りに集まってくる。俺はそれには目もくれず、テーブルの脚を掴んでなんとか立ち上がると、二人を追いかけようとしたが、もとから不自由な身体にさっきの殴打をくらった後では、よたよたと歩くのが精一杯だ。だが、指輪ならず、杖まで奪われた身としては、そのまま兄妹を逃がすわけにはいかない。


 俺は力を振り絞って、よろよろと金属の配管がむき出しになった廊下の壁を伝って、二人が逃げた方向に歩んでいった。この船の構造からすれば、この先は行き止まりのはずだ。だとしたら、なんとか袋小路に追い込んで捕まえてみせる。


 そう思って廊下を歩く俺に、進行方向から、今度は、白い床と壁を掠めて、レーザー銃の閃光が襲いかかってきた。見れば行き止まりの廊下の奥で、少年が俺の銃を構えていた。その足元には、カバーの外れた杖が転がっている。


 まったく、なんて子どもだ。


 俺は半ば呆れながらも、ゆっくりとだが足は止めず、じりじりと子どもたちへの距離を縮めていった。その俺の頬をさらに閃光が掠める。少年は茶色い頭をがたがたと震えさせながらも、引金から手を離さず、俺に向かって叫んでいた。


「来るな! 来るな!」

「子どもにしちゃあ、度胸が良いな、それに銃の腕も悪くない。だがな、それは俺の大事な杖なんだ。返してもらおう」


 俺はかまわず少年から視線を外さず、一歩、一歩、にじり寄る。


「そうだ、杖だけじゃないな、指輪もだ」

「来るな! 来るなってばぁ! 撃つぞ!」


 少年との距離は、もう後二メートル足らずだ。それでも、なおも引金を引こうとする少年を、俺は怒鳴りつけた。


「撃てるものなら撃ってみろ!」


 俺の声に弾かれるように、少年は絶叫しながら引金を引いた。だが、銃口は黙ったままだ。

 唖然とする少年から、俺は勢いよく銃を取り上げると、次の瞬間、思いっきり彼を平手打ちして言ってやった。


「撃つなら、エネルギーが充填されているかくらい調べてからにしろ。小僧」


 少年の後ろにいた少女が、火が付いたように泣き出す。そのピンクのワンピースのポケットから、きらり、とアクアマリンの指輪が床に転がった。



 警備室での取り調べから帰ってきた俺に、いきなりスノウは泣きながら抱きついてきた。どうやら事件の顛末は、あっという間に船内を回り、スノウの耳までとっくに届いていたらしい。


「イヴァン! なんて無茶なことしたの! いくら相手が子どもだからって、無茶がすぎるわよ!」

「大丈夫だ、銃にどのくらいエネルギーが残っているかくらい、頭に入っていたさ」

「もしも、ってことがあるでしょ! もし死んでいたら、どうしたの!」

「死んでいたら、これを返せなかったかもな。ほら、もうなくすなよ」


 そう言いながら俺は、スノウの掌にアクアマリンの指輪を乗せた。スノウは俺にすがりついて泣きながらも、それを受け取ると薬指に深くはめた。そしてなおも黒髪を振り乱して涙を流しながら、俺の胸を叩くのだ。


「もう、イヴァンの馬鹿、馬鹿、馬鹿!」


 天井を仰いで、どうスノウをなだめれば良いか嘆息しつつ、俺は警備室で聞いた少年の供述を思い出していた。


 ……母さんに、お土産が欲しかったんです。母さん、父さんが戦死してからずっと、塞ぎ込んでいたから。綺麗なものでも手にすれば、笑ってくれるかな、って……。


 罪は罪としても、平手打ちは余計だったな、とそれを聞いて俺は少し悔やんだ。


 子どもをこんなことに追い込むような時代を作っちまった、大人のひとりとして。

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