7 甘くて苦い

 イヴァンの肩で、子どものように泣いてしまったとき、私が感じていたのは、もはや遠い思い出の、実の父のぬくもりだった。


 君は悪くない、と繰り返し私に囁くイヴァンの声とその掌から伝わる熱は、幼いころ父に抱きしめられたときの感触みたいに心地良く、私は泣きながら戸惑っていた。


 まるで、お父さんみたい。


 そう口から零したくなるのは、なんとか堪えたけど。

 だって、私はイヴァンに、ひとりの男性として惹かれているのだから。最初はウィリアム街の生活から抜け出したくて、ついその逞しい腕にすがりついただけだったかもしれないけど、今や私は、はっきりと彼への恋心を自覚してしまったから。


 だけど、あのときのイヴァンは、お父さんみたいだった。もう忘れたと思っていた、あたたかな家族のぬくもり。


 そこまで考えて私は思った。イヴァンは、自分の家族の記憶を探している。もし、それが見つかり、そして実際に家族が無事で、イヴァンと再会できたとき、私はどうするのだろうか。私はどうなるのだろうか。

 彼に妻子がいたら、私はその存在に嫉妬を禁じ得ないだろう。

 そしてイヴァンは私の手の届かぬところに行くのだろう。


 「思い出すべきことを見つけるため、この旅の意味はあるのよ」なんて、言ってしまったけれど、正直、私はイヴァンに家族のことを思い出して欲しくないのかもしれない。


 なんて自分は矛盾に満ちて、勝手な人間なんだろう。

 私は自分の心に渦巻く、何と名付けたら良いか分からぬ感情を、上手く処理できずにいる。



「ということは、ヒモナスに行く直行便は、しばらく欠航するということなんだな」


 私はイヴァンの声で我に返った。私たち二人の前には、乗船していた船の船長が縮こまっている。船長は、ばつの悪そうな顔で、そのイヴァンの険しい声に、さらにちいさくなりつつも語を継ぐ。


「はい、申し訳ありません。思ったより船の損傷が酷く、あ、あの船は、ちょ、長距離の航行には耐えかねると昨日エンジニアから、ほ、報告がございまして」


 船長の声は震えている。どうやら、海賊の一味を冷酷極まる射撃で一網打尽にしてしまったイヴァンは、船長にとってはありがたい以上に恐ろしい存在となっているようで、その言葉には、イヴァンを怒らせまいとする精一杯の配慮に満ちている。


「だが、あの船以外に、ヒモナスに行ける宇宙船の予備が今はない、と」

「は、はい、何しろ、この、戦後の船舶不足は深刻ですので」

「わかった。直行でなく、短距離の航路を乗り継ぐ別のルートで、ヒモナスには向かうことにする。その切符の手配をしてくれるか」

「も、もちろんです。このたびは本当に、も、申し訳ありませんっ」


 船長はイヴァンに一礼すると、そそくさと部屋を出て行った。それを無表情に見送ると、イヴァンは、ゆっくりと私の方へと、身体の向きを変えた。


「聞いての通りだ、スノウ。俺たちの旅は少々遠回りになりそうだ」

「私はかまわないわ」


 だって、その方があなたと長くいられるし。


 その言葉は飲み込んだが、それが私の本心だった。この旅が長引けば良い。できるだけ、できるだけ、この人と一緒にいられる時間が長ければ良い。私は無意識のうちに、心からそう願っていた。だから「遠回り」には大賛成だ。

 イヴァンはそんな私の心の内を知ってか知らずか、黙って私の言葉に頷いた。


 そのとき、部屋のインターホンが鳴った。さっきの船長が戻ってきたのだろうか。訝しげな私をよそに、イヴァンはよろける身体でゆっくりとドアへ向かう。見ると、ルームサービスが来ていた。まだ夕食は頼んでないはずなのに、何だろう。

 そう思いつつボーイが部屋の中に運んできたワゴンの上を一目見るや、私は、歓声を上げた。

 そこには、溢れんばかりの果物が盛られた、大きな銀の皿があった。


 苺、メロン、パイナップル、林檎、葡萄。

 そのほか、名も知れぬ色とりどりの、華やかで瑞々しい果物の盛り合わせに、私は目を見張りイヴァンに向き直った。


「イヴァン。素敵……これは?」

「いや、明日からまた宇宙の旅が続くと、こういったものが欲しくなるものだからな、さぁ、食べよう」


 イヴァンはそう微笑みながら、テーブルに運ばれた皿を前に腰を下ろす。私も目を輝かせたまま、椅子に座ると、どれから手を付ければいいか迷いつつも、真っ赤に熟れた苺を一粒つまむと、口に運んだ。


「美味しい」


 私は夢中になって果物を頬張った。どれもこれも、生まれてから味わったことのない、麗しの味覚だった。


「それはよかった」


 気が付いてみれば、イヴァンはそんな私を見て嬉しそうにしていた。自分は果物に手を付けず、ただ、私のことを見つめている。やわらかな照明のひかりに、短い金髪と薄いブルーの色の左目がことさら、優しく煌めく。

 そんな彼を目にして、私は、はっ、とした。これは私へのイヴァンからの心尽くしの贈り物で、チップをはずんで、特別にホテルに作ってもらったものなのだ。

 私の心に、なんともいえないあたたかな熱が満ちた。


「イヴァン、ありがとう」

「宇宙空間はどうしてもビタミンが不足するからな、よく食べておくといい」


 イヴァンは素っ気なく答えたが、私の喜び具合に心から安堵しているのは明らかだ。

 そのとき、私はふと、思った。


 彼は、昔から女の子をこうやって喜ばせるのに、長けていたのだろうか。

 彼は、今は忘れかけている、妻子にも、こんなことをしていたのだろうか。


 一瞬にして心が一転し、ずん、と重くなる。私の瞳に涙が溢れた。銀の皿に、ポツリ、と雫が落ちる。


「どうした、スノウ」

「ううん、美味しくて。あまりにも美味しいものだから……」


 涙のしょっぱい味と、フルーツの甘い味覚が口の中で混ざり合った。

 こんなに幸せなのに、気付かなくても良いことに気付いてしまった自分が悔しくて、哀しかった。でも、私はその気持ちが彼に分からないように、果物を口に放り込み続ける。どこまでも甘い至福の味が舌に絡む。だけど、涙が止まらない。


 嬉しくて、甘くて、でも、胸が痛くて。


 私はその刹那、恋の苦しさを知った。

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