6 旅の意味

 あれから、三日。


 スノウはホテルの部屋のベッドの上で、始終暗い表情で膝を抱えている。なんと声を掛けたら良いものか、俺にはまったくお手上げだ。


 ただ、ここ三日の数少ない彼女との会話のなかで、分かってきたのは、彼女の今までの、ウィリアム街での暮らしの壮絶さだ。壮絶というか、悲惨といった方が良いかも知れない。


 スノウはポツリ、ポツリと、そこでの生活のことを語ってみせた。


「九歳の頃、母が死んで、次の年には義理の母が来たのね。だけどそのまた次の年、私が十一歳になったとき父が戦死したの。で、十二歳になったら新しい父が来てね。で、見事に、誰とも血の通わない家族の、できあがり」


「それでも私はうまくやってけると思ったの。十五歳までは、学校にもなんとか通わせてもらえたし。でも数ヶ月前のことよ。空襲警報が出先で鳴って、私はとりあえず至近距離のシェルターに飛び込んだの。だけど、そこにいたのは柄の悪い男の人たちでね。運が悪かったわ」


 ……スノウか。それは汚し甲斐のある名前だ、なあ……


「翌朝帰ってきた私を、家族は良く思わなかった。お前から誘ったんじゃないかとさえ言われて、その日から私の扱いは変わったわ。そして一週間後、義父は言ったの、私に客を取るようにと」


 ……どうせもう、そんな身体じゃないか。今更、違いやしないさ……


「それから、毎晩のように私は」

「スノウ! もういい!」


 俺は耐えきれなくなって、彼女の告白を途中で遮った。

 なんてこった。虐待もいいところだ。あの男、本気で殺してやれば良かったよ。俺は天井を見上げ、嘆息した。


 スノウは無表情にそこまで話すと、後は暗く虚ろな顔をするばかりだ。俺は宇宙船内での最初の夜のことを思い出した。


 ……抱きたかったら、そうして……


 なんて、ふざけたことを言いやがると、俺は怒ってしまったが、ふざけてなんかいなかったんだ。スノウは。


 とはいえ、あの時点でこの事情が判明したとしていたら、俺はどうしたのだろうか。抱いたのだろうか。まさか。いや、もうそんなことはしなくていいんだよ、と優しく声を掛けてやるべきだったのか。いやはや。


 宇宙船は未だ修理中。ホテルから外に出る気にもならない。ただ漫然とすぎていく陰鬱な時間にも、流石に耐えがたくなってきたが、こればっかりは仕方がない。俺はただ黙りこくって、杖に仕込んだ銃の手入れをしていた。


 気が付くと、スノウが俺の目の前に来ていた。


「これ、返すわ」


 スノウの手には、小さな赤いビロードの箱が乗っていた。俺が渡したアクアマリンの指輪が入った箱だ。


「それはもう君のものだ。返す必要はない」

「私にはふさわしくない気がするの」


 スノウの声は消え入らんばかりだ。俺は銃の手入れの手を止めた。


「スノウ、俺は君が大事にしていた指輪を奪っただろ。それの代わりだ、だから気にすることは何もない」


 俺はそこまで話して、そういえば、あの彼女の青い石の指輪を奪い、捨てた説明を、全くしていなかったことに気付く。


「スノウ、君の青い石の指輪の話を、しなきゃな」


 俺はサイドテーブルに銃を置くと、スノウに向き合った。その目はあの日の朝と同じ、泣き腫らした跡がある。俺は心底、スノウが気の毒になった。その白い肌と黒髪は、彼女を年齢より大人に感じさせるが、その顔をのぞき込み、まじまじと見入れば、まだあどけない少女の輪郭だ。

 俺はスノウの肩に静かに手を置き、彼女を椅子に座わらせると、なるべく優しい口調を心がけて、話し始めた。


「君と初めて会ったとき、俺は道で転んだだろ。あのとき俺は、今は空洞の、この、右目の義眼を落としてしまったんだ。次に会ったとき、俺が落としものと言ったのは、それなんだよ。で、君が拾った指輪にしていた青い石。あれは、実は俺の義眼の欠片だったんだ」

「えっ」

「ところがあれは、軍の最高機密の技術で作られたという厄介な代物でな。それを外部の人間に持たせておくわけにはいかないと、憲兵が探していたんだ。だから俺は、このままでは君が危ないと、スノウ、君から指輪を奪って捨てたんだよ。そういう俺の勝手な事情で、君の指輪を俺は取り上げちまったから、代わりにこの指輪を買って渡した。だから、このアクアマリンの指輪は君が持っていてくれないと、俺が困る」


 スノウは驚いたように俺の顔を見ていたが、やがて、納得したように呟いた。


「だから、あなたの瞳の色にあんなに似た、綺麗な石だったのね」

「そういうわけさ、俺の瞳だったわけだからな」


 俺は笑ってそう言った。

 だが、スノウの表情は晴れない。晴れるどころか、瞳からぽろぽろと涙が溢れ出ている。そして突然、顔をくしゃくしゃにして、ちいさな子どものように、わっ、と泣き出した。


「……私、あなたの……ような、優しい人が……ずっと傍にいてくれたら……こんなふうにはならなかった……かもしれない、のに」


 俺は途切れ途切れのスノウの言葉を受けとめて、彼女の頭を抱き寄せた。


「そうだな、君は何も悪くない、悪くないんだよ」


 なおも彼女の号泣は続く。俺はスノウの頭を優しく撫でるしかなかった。まるで幼子をあやしているようだ。

 そうだ、俺もあの子をこうやって抱きしめてやりたかった。


 あの子? 俺は誰を思い出しているんだ?


 そしてまた、こめかみが疼く。耳の奥から聞える狂ったヴァイオリンのような音も、再び。いや、三度。いや、もう何度目のことか。


「おかしい……」


 急にそう呟いたものだから、スノウは驚いて泣くのを止め、泣き腫らした目で俺を見上げた。


「俺は、俺は、どうしても、家族のことを思い出せない」

「えっ?」

「駄目なんだ。家族のことを考えようとするたび、頭の調子が狂いやがる。俺は、何か大事なことを忘れていく気がする」


 するとスノウが、ちいさく呟いた。


「神様は意地悪ね」


 今度は俺が彼女を見返す番だった。


「私は忘れたいことばっかり、あなたは思い出したいことばかり。この心を、交換できたら、どんなにいいか」


 そして、スノウは俺の身体から頭を離すと、こう呟いた。


「ねぇ、イヴァン。こう考えましょうよ。私たち、こうして旅に出ることになったのは、偶然だけど、でもきっと意味があるのよ。あなたは思い出すべきことを見つけるため、私は忘れるべきことを忘れるため。この旅にはきっと、そういう意味があると」


 しばらく、俺たちの間には沈黙が広がった。スモークピンクのカーテンが空調の風に微かに揺れる様が目に入る。ホテルの外の喧噪が、やけに耳に響く。

 やがて俺はゆっくりと頷いた。


「そうだな。そうすることにしようか」


 スノウも、こくり、と頷く。その彼女の耳元で、俺は最後に、こう囁いた。


「スノウ、やはり、君に雪を見せてあげたいな」


 君がその名の通り、正真正銘、清らかで綺麗なことを教えてあげたいから。


 柄でもなくて、とても口に出せなかったが、それが、そのときの俺の本心だった。

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