第2章 雪を見ないか

2 混線する記憶

 俺は正直、困惑していた。

 ああは言ってしまったものの、全く見知らぬ者同士、どこへ向かうべきなのか。


 俺も派手に憲兵をぶん殴ってしまった以上、この惑星から離れた方が良いのは確かだ。どうせ退役した身だ。ひとりなら、流れ着くままにどうとでもなるだろう。しかし、今の俺には同行者がいて、それもよりによって、年端もいかぬ少女と来たものだ。


 とりあえず、再開したばかりの宇宙港に向かうトラムの個室で、コーヒーとハンバーガーというささやかな夕食をつまみながら、俺は少女の素性を問いただすところから始めることにした。


「君、名前は?」

「スノウ・フイユよ」

「歳は?」

「来月で十九になるわ」

「じゃあ、まだ十八歳か。家族は?」

「いないようなものよ」


 その含みのある返答に、俺はハンバーガーを片手に眉をひそめた。


「いるってことか。そうすると、俺が誘拐犯と言われてもおかしくないことになるのだが」


 するとスノウは、ふふっ、と微笑んで、きっぱりと言い切った。


「それはないわ。私がいなくなったところで、稼ぎ手が減るだけ。それ以外、別に家族は困らないもの」

「笑って言うことじゃないと思うが」

「笑い話よ」


 スノウの薄笑いを浮かべた顔が車窓に映る。

 俺はその笑いに、ぞくり、としてコーヒーを危うくこぼしそうになった。十八の少女がする表情にしては大人びている、というか、冷めきっていたからだ。

 何も言えなくなって黙りこくってしまった俺に、ハンバーガーを食べ終わったスノウが、今度は私の番、とばかりに問いかけてくる。


「軍人さんは、何という名前なの?」

「イヴァン・ドヴォルグだ。歳は三十九。すでに退役しているから、その、軍人さん、ってのは、やめてくれ」

「じゃあ……イヴァン……でいいかしら」


 スノウはやや言いづらそうに俺を名前で呼んだ。俺も正直、耳がくすぐったかったが、変に他人行儀だと周りから怪しまれる可能性があるので、まあ、ひとまずはよし、とする。俺は一気にコーヒーを飲み干すと彼女に答えた。


「かまわんよ、スノウ」

「ありがとう、イヴァン。それで、あなたに家族はいるの?」

「妻がいたが、死んだ。子どもは……」


 そう答えたときだ。急にこめかみの辺りがズキリと痛み、続いて、ほんの一瞬だが意識が遠くなった。そして耳の奥に響く、狂ったヴァイオリンのような音。


 なんだ、今のは。


 背を脂汗が流れる。スノウがコーヒーを啜る手を止め、俺の顔を見返す。だが俺は努めて冷静を装い、質問の続きに答えようとした。


「子どもは……」


 おかしい。なぜか答えが出てこない。

 俺は焦った。そして焦れば焦るほどに狂ったヴァイオリンの音色が耳に木霊する。俺はたまらず両手で耳を覆った。

 空になった紙コップが床に、ころん、と転がり、スノウが慌てて人を呼ぼうと立ち上がる。だが、俺は彼女を震える手を前方に差し出して制し、目を固く瞑る。すると、数十秒後、あの耐えがたい音は消え失せた。


「イヴァン、どうしたの? 具合でも悪いの?」

「いや、君の質問に答えようとしたんだが、急に頭の調子が狂いやがった」

「頭の調子?」


 そこで俺は、まだ告白すべきことがあったことに気付く。


「ああ。俺の頭部の半分は、戦時中に受けた傷が原因で、見かけでは分からないだろうが、ほぼ機械だ。この眼帯をしている右目も吹っ飛んじまった。生きているのは左目のみだ」

「そうなの」


 スノウが微笑む。まったく気にしてないわ、とばかりに。そしてコーヒーを片手に、こう囁いた。


「その綺麗な目が生きていてくれて良かった」


 真っ暗だった車窓に、オレンジ色の灯がぽつぽつ、点り始める。トラムは宇宙港に近づきつつあった。



 宇宙港は、人波でごった返していた。

 俺とスノウは、最低限の着替えなどを売店で手早く購入した後、旅客ターミナルへと足を向けた。

 広大なターミナルには、軍を除隊してきた帰国軍人の群れが、船が着くたびに各ゲートから奔流の如く溢れ出てくる。そして、それを出迎える家族らしき大勢の市民の姿も見える。無事を喜び合う人々がいれば、その脇で泣き崩れている者もいた。おそらく親しい人の戦死を告げられたのだろう。


 終戦直後の風景といえども、その眺めはなかなか残酷なものだった。

 だが、そんな俺も、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだ。その名残が、この機械になった顔半分だ。俺の手は知らず知らずのうちに、眼帯に黒く覆われた右目に触れていた。空虚な穴の感触が布越しに伝わってくる。俺も良く生き延びたものだ。

 まあ、死んだとしても、悲しむ家族は俺にはいない、はず、だが。

 

 はず?


 おかしい。さっきのトラムの中でもそうだったが、家族のことを思い出そうとしても、記憶がおぼつかない。

 数日前までは確かに鮮明としていた事柄であるのに。 


 俺は、何か、大事なことを忘れようとしているのではないか。急速に、なんとも不快な悪寒が心に広がる。


 一方、隣のスノウは、俺の傍にじっと縮こまりながらも、ごった返すターミナルの光景に目を奪われている様子だ。物珍しげに、あちこちに視線を投げかけては、嘆息している。

 もしや彼女は、生まれてから今日に至るまで、あのウィリアム街しか知らないのだろうか。


「宇宙港は……いや、街を出るのは、初めてなのか?」

「いいえ。でも、覚えていないの。私はもともと他の星からの移民だったと死んだ母は言っていたわ、でも、物心ついたときには、あの街にいたから」


 俺は心中で、やはりな、と呟いた。彼女がこの惑星の出自でないことは、薄々気づいていた。それは、彼女の外見……陶器のように澄んだ白い肌に艶のある黒髪、黒い目……が珍しかったせいもあるが、まず、その名前が、俺は気になっていたのだ。


 スノウ


 きっと彼女は、雪の降る星で生まれたのだろう。

 だが、この星域に、冬のある惑星は、ない。そう思ったとき、俺は、ふと、あるひとつの星を思い出した。


 惑星ヒモナス。

 一年中雪と氷に閉ざされた、古い言語で「冬」を意味する星。俺が軍隊での最初の五年を過ごした駐屯地でもある。俺は、フロアに掲げられた宇宙船のインフォメーション・ボードにその星の名を見出すと、傍らの少女に声を掛けた。

 この、成り行きのまま始まろうとしている旅路の、目的地を決めるべく。


「スノウ。雪を見たいと思わないか?」

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