四話 的

「あなた、『ブル』じゃないでしょ」

 そう言われて、胸の奥がひりついた心地と同時に、安堵のような気持ちを橙は感じていた。ああ、やっぱりあいつの考える子ども騙しじゃ騙せなかった。でもそれでよかった、とも思っていた。

 ブルはいない。目の前の幼い娼婦が自ら、お友達——彼女はついてきたブルを橙の友人だと思っているようだった——はロビーに行っていてね、と言われて、少し前にこの部屋を出て行った。橙はくたびれたスーツを着た後ろ姿を見て、どこまでも愚直なやつだ、と思っていた。

「何が狙いだ」

 無駄だと分かっていたが、女を睨みつけた。女はくすくすと笑って、リボンで巻かれた目を押さえた。

「あたしね、もうすぐお医者に行くの。目の見える手術をするのよ」

「……」

「そうしたらね、本当のブルの顔を見てみたいの。きっとブルはあなたとあたしを会わせようとするけど、あたしは最初にブルの顔が見たい」

「……あいつの顔は、相当きついぞ。おれは、……」

 あいつが悲しむところなんか見たくない。そう言おうとして、何を言おうとしているんだ、と我に返った。夢みがちなこの女の言葉に乗せられて、自分までおかしくなったか。馬鹿みたいだと自分を嘲りながらも、次の言葉が浮かばず橙は不自然に黙りこくっていた。

「……あはは! 優しいのね!」

 女が笑って、橙の頬を撫でた。輪郭を指先でなぞるようにした後に、掌で慰撫する様に撫でるそのやり方は、きっと一生慣れることはない、と橙は思った。女は夢みがちな口調で、そのまま続けた。

「でも大丈夫。あたし、優しいブルが好きだから。きっとどんな顔だって受け入れられる気がするの」


 ロビーまで降りると、ブルは煙草を吸っていた。こちらに気づくと、ひゅう、と軽い調子で口笛を吹いたのが聞こえた。

「よう、色男」

「うるせえ。早く帰るぞ」

 ブルの肩を叩くと、包帯の奥で力なく笑う気配がした。赤茶けた髪の受付係の間延びした挨拶を受けながら、車に乗り込んだ。橙は、しばらく何も言えずにいた。ブルもまた、黙ったままハンドルを握っていた。沈黙を打ち破るタイミングが掴めないまま、お互い飴も煙草も咥えずに黙っている。

 ——あたし、優しいブルが好きだから。

 女の言葉が脳内で繰り返される。勿論そんな言葉を信じたわけではない。けれど今言わなければいけないと思った。それは、そう、強いて言うのならば、あの手に触れられるのが嫌だから。面倒から一つ解き放たれることになるのに、何を躊躇っているのか。自分の中の感情に言い訳をしながら、橙は口を開いた。

「……あの女が、お前に会いたいとよ」

「何言ってんだ……」

「知ってたんだよあの女。おれが『ブル』じゃねえことも、お前の方が『ブル』だってことも」

 橙は話した。女が目の手術をすることも、女が本当のブルの顔を見たがっていることも、本当に彼を愛していることも。橙が話をやめると、ブルは小さく、そうか、と言った後に、照れ臭そうに口元を歪ませた。

「恰好つかねえな」

「……そうだな。ついでにスーツ新調しろよ」

「なんだ、臭うか?」

「女にゃきついだろうな」

「もっと早く言えよ、そういうことは」

 はは、と軽くブルが笑ったので、橙はようやくキャンディを取り出すことができた。少し上機嫌な様子のブルが、鼻歌混じりで仕立て屋の方向へ車を走らせる。それは悪い光景ではないはずだ。面倒も減るし、上手くいけばあの女とブルは所帯を設けて幸せになるかもしれない。それなのに焦りと喉の渇きが湧き上がってくるのは、どうにかしてブルがあの女に幻滅されはしないかと思ってしまうのは、

「……どうかしたか?」

「あ? ああ、何でもねえ」

 顔を顰めていたことに気づいて、目頭を揉む。何も知らないブルは、迷惑かけちまってすまねえな、と言って笑っている。その顔が酷く憎らしい。

「ダイ、ついでにお前も新しく仕立ててもらえよ」

「必要ねえよ。おれはまだこれで十分だ」

 仕立て屋の看板が見えた。サイドブレーキをかける音が聞こえた。ウィンドウから見えるぼんやりとした灯りを見ながら、橙はキャンディの棒を噛んでいた。

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緋色になる 綿貫 @H41_fumio

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