三話 鉛

 ちょっと付き合ってくれないか、とその時もブルはそう言った。面倒事は嫌だと言う前に、美味い飯でも奢ってやるから、と宥めすかすように言われたのも同じだった。

「切らしてるのか?」

 妙だということに気がついたのは、見慣れない曲がり角に差し掛かった頃だった。ブルは運転する時、必ず煙草を吸う。そうしないと眠くなるんだよ、と嘘か本当かわからないことを言われた記憶がある。ブルは少しだけ考える素振りを見せたあと、ああ、と納得いったような声を上げた。

「吸うとまずいんだよ。向こうさんに嫌われちまう」

「へえ……女か?」

 半分軽口のつもりで言った質問には、沈黙が返ってきた。笑い声なのか溜息なのかよくわからない息を吐く音の後に、ブルはそうだよ、と言った。

「いい女なんだ。俺のことを愛してくれて、心が綺麗だって言ってくれて」

「じゃああんたが会いに行けばいいだろ」

「……彼女、目が見えないんだ。こんなに心が綺麗な人なら、きっと顔も綺麗なんでしょう、って言われちまって」

「……」

「女の言うことを嘘にしちゃいけねえと思ったんだ」

 ゆっくりブレーキが踏まれる。外を見ると、そこは娼館のようだった。ついてきてくれ、とブルは言って、娼館の門を潜った。赤茶けた髪の色をした受付係が、三人でおっ始めようってんですか、と笑った。殴りかかりたくなるのを我慢して、中指を突き立てると、肩をすくめられた。

 扉の横に無造作に打ちつけられた札には、桃、とだけ書かれていた。重い扉を押し開けると、天蓋付きのベッドの上に誰かが横になっていた。

「お客さん?」

 まだ子どものような声だった。ベッドに近づくと、自分とそう年の変わらない女が、派手な着物に身を包んでベッドに横になっていた。着物から見える白い脚はぞっとするほどに細く、息が止まった。ブロンドの髪が無造作にシーツの上に広がっている。そのシーツはお世辞にも綺麗とは言えなかった。自分を育てたあの家政婦のことを思い出して、思わず舌打ちが出そうになった。

「……もしかして、あなたが『ブル』?」

 女が、少し期待したような声音で言った。目はレースのついたリボンが巻かれていて見えなかったが、頬は僅かに紅潮したようであった。あとでクリーニング代も請求してやろうか、と思いながら、黄ばんだシーツの上に座った。

「ああ、そうなのね、あなたが!」

 女は叫ぶような声でそう言った。そうして、肩口に細い手が触れた。確認するように、手が上へのぼっていく。頬に触れた時、女は笑うような息を吐いた。

「ほら、やっぱり。あなたはきれい! あたしの目が見えたなら、あなたを頭の先から爪先まで、じっと見てやれたのに」

 夢うつつのように言いながら、冷えた手が自分の顔を撫でている。引き剥がしたくなるのを堪えながら、ベッドの横の椅子に腰掛けているブルを睨みつけた。ブルはポケットの中の煙草をいじりながら、包帯の奥の目を伏せた。


 ブルと呼ばれている男の顔はない。ない、と表現してしまった方がよいくらいに、無惨な状態になっているのだ。どうしてそうなったのかは本人も語ろうとはしない。ただ、巻かれた包帯のその奥からは、煙の臭いに混じって軟膏のにおいがした。

 いつだったかはもう覚えていないが、それをはじめて知覚した時、この男のそばに自分がいなくてはならない、という自惚れにも似た感情が、橙の中で広がったのがわかった。それはまるで男の顔の傷のように心の中で広がって、今では焦燥のような気持ちに変わっている。

 力づくでものにすればいい、と言っても、ブルは頑として首を振らなかった。橙に自身の代わりをさせるだけで、触れようともしない。ただこちらを見ているだけだ。それがもどかしくて仕方がない、と思っていた。

 けれど違うのだ。これは間怠っこしい手を使うブルがもどかしいという感情ではない。ではなんだ?


 この男が目の前の女を見ている時に感じる、この重苦しい、焦りのような痛みは一体何だというのだろうか。


 答えはもう出ている。

 けれど、そうだと言ってしまえば何かが砕けてしまうような気がして、今日も橙は口をつぐんでオレンジのキャンディを噛んでいる。

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