二話 桃

 血管の浮いた手が自分の頬を撫でている。まるで死人のような体温に、思わず身を引きそうになる。けれど、他ならぬブルの頼みだったので、ぐっと堪えた。

 目の前には、青白い顔の女がいる。歳は自分と変わらないだろう。まだ幼さの目立つ造形をした女は目を閉じて、幽霊のように手を突き出して顔を撫でている。そうして、ふふ、と笑う。

「やっぱり、あなたはきれいね」

 自分自身の言葉と、掌から伝わる感触に満足したように女は薄い桃色の唇を歪ませた。指先が離れようとして、それでも名残惜しいのか躊躇っている。

「もう少し触っていてもいい?」

 遠慮がちな声が囁いたので、思わず眉を顰めてしまった。にやついた目でこちらを見ていたブルが、済まなさそうに視線を逸らした。ジャケットの中に入っている煙草をもてあそんでいるのが見える。それは嫌というほど見た、彼が困った時にする仕草だった。わるいな、と唇が動いたのがわかる。女に不快な気持ちを悟られないように、細く息を吸った。

「……すいません、もう時間だ」

「そうなの、ごめんなさいね」

 彼女はくすくすと笑って、頬に指先を添わせる。これだけだから、と言って。喋れないままにブルを睨みつけた。濃い香水のにおいを嗅ぎながら、気まずそうな薄ら笑いを横目で見ていると、橙はなんとも言えない気持ちになるのであった。


「……おい。もうやめろこんなこと」

 車の中で、ようやく橙は口を開いた。いいんだよ、とブルは笑いながら煙草を吹かしている。よくねえよ、と肩を小突くと、ブルはその厚い肩をすくめた。

「あの女がいくら好きだからって、こんなことに時間を割くのは間違ってる」

「ああ、耳が痛え」

 包帯が、熱を持った灰によって少し焦がされる。バツが悪いと感じたのだろう、ブルは橙の方を見ず、外の景色を見ながら煙草を吸っている。

 ブルはその体型と崩れた顔面に似合わず、剽軽で明るく、橙が知っている人間の中では一番まともだった。かつては撃たせても一流、素手でも一流と噂されたにもかかわらず、護衛をやめさせられて、自分などの教育をしている彼の、包帯の奥の目はひどく優しかった。その優しさは自分だけが知っていると思っていた。知っていると思っていたのに。

 ——……そんなに大事かよ。あの女が。

 こんなことは間違っている、と言ったのは一度や二度ではない。けれどその度に、ブルは女との約束を守ると言うただそれだけのために、自分を代役に仕立て上げた。やっぱりあなたの顔が綺麗と言って女が微笑むと、彼も笑ったような気がした。それが気に入らなかった。好きな女を大事にするために、望んで蚊帳の外に行くこの男に、どうにかして連れ戻したかった。

 吸えない煙草の代わりに、キャンディを取り出して噛み砕く。ガリガリと、口の中でオレンジの味が弾ける。その様子を、ブルはちらちらと見ていた。

「……すまんな」

「……」

 おれなら、あんたにそんな想いをさせてなんかやらないのに。という小っ恥ずかしい台詞が溢れそうになって、キャンディの棒をがちりと噛んだ。

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