緋色になる

綿貫

一話 橙

 橙は、女の怒鳴り声と煙草のにおいのする場所で育った。

 金切声の痛さと、燃え殻の熱がまだ幼いその身を苛んだので、橙は五歳頃にはもう泣かなくなった。薄汚れたエプロンをした家政婦は、お前は本当に手が掛からなくて助かるよ、と言っては橙に細々とした頼み事をするようになった。それは法律で許されることではなかったが、ここでは力こそが法律だった。故に、彼女に逆らえばなんらかの折檻を受けるということを、橙はよく知っていた。

 橙のその性格は、しばしば他人に疎まれることもあったが、橙の狡猾さを疎むものは橙よりも弱かった。ずるいと嘆く自分よりも幼い子どもに、悔しかったらおれより強くなれ、と橙はずっと思っている。

 家政婦が関係を持っていた人間の中で一番強い男が、橙に目をつけたのは十一の頃だった。あの人は綺麗な顔が好きだから、悪いようには扱われないだろうよ。家政婦はそう言って、襟が焦げたネルシャツを羽織らせて橙を送り出した。肌寒い、秋の朝のことだった。


 それから橙は、男が頭領を務める組織で働き始めた。とはいえ、子どもの橙にできることなど『荷運び』や『歓談の相手』くらいだった。これじゃあの女の言うことを聞いていた時よりもわけが悪い、と橙は歓談相手が気紛れに差し出したチーズを齧りながら思っていた。

「ダイ」

 ここでは、誰もが橙のことをそう呼んだ。橙がここに連れて来られた時、世話をした男が気紛れにそう呼んだのが浸透したのである。振り向くと、その男が立っていて、よお、と右手を上げた。橙が眉を顰めたのを見て、男は申し訳なさそうに、ヘラヘラと笑った。

 男はブルと呼ばれていた。腕の立つ男で、橙が来るまでは頭領の護衛役を勤めていた。面食いなところのある頭領は、彼の腕はかっていたものの、戦争だか抗争だかでできた傷のせいで、人に見せられないほど崩れてしまった顔面が気に入らないようだった。橙はこの男の燻らせる、ブルズアイのパッケージの煙草のにおいが気に入らなかったが、それ以外は概ね気に入っていた。

 だから今からこの男がしようとしていることが、どうしても気に入らなかった。

「やめろって言ってるだろ」

「いやあ……」

「ヘラヘラしてんじゃねえよ。大体、こんなことに時間裂くな。おれもお前も仕事中なんだからよ」

「えらそうに言ってるが、俺が暇だってことはお前もどうせ暇だろ。ならちょっと息抜きしても構いやしねえよ」

 言葉に詰まる。彼が本当に暇なのかは知らないが、自分が暇なのは事実だったからだ。黙ったままの橙の肩を叩いて、ブルは車のキーを手の中でもてあそんだ。

「まあちょっと付き合えって。飯くらいいいもん奢ってやるからよ」

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